水泳部といっても、泳ぐだけじゃないんだなぁ。
体験入部でランニングをさせられた私は思い知った。
小学生時代は帰宅部で部活動経験のない私は、ついていくのがやっと。だが体を動かすこと自体は好きだし、プールも楽しい。
ただ、例の先輩が私を特別視していることも明らかになった。
他の新入生には特に口出ししないのに、私にだけは厳しい口調であれこれ指示を出してくるのだ。
筋トレのサポートや泳ぎについてはともかく、掃除とか雑用のやり方にまで。挨拶の声が小さいとも言われた。他の子と同じくらいの大きさだったと思うんだけど。
いじめというほどではないが、明らかに目の敵にされている。
私は先生に何と報告しようか悩んだ。ワンチャン、私のためを思って厳しくしてくれている可能性もあるからだ。
だが、そんな私の淡い期待は、すぐに覆されることとなる。
部室に忘れ物をした私が走って戻ると、すぐに帰らず駄弁っていた先輩方の声が聞こえてきた。なんとなく立ち止まって会話に耳を澄ます。
「お前やけに気にかけるじゃん、岡野のこと」
突然自分の名前が出てドキリとした。
「別に、んなことねぇけど」
例の先輩の声だ。
「いやいや、絶対気にかけてる。もしかして好み?」
「ちげーよ!」
「怪しいな〜。あの子けっこう可愛い顔してるしな」
「だからムカつくんだよ。ライバルとして」
「ライバル?? お前のが断然速いだろ」
「いや、泳ぎじゃない。まぁ、今度話すよ」
そろそろ帰ろうぜ、という声が聞こえたので慌てて身を隠した。先輩方の姿が見えなくなってから部室の戸を開く。
私が先輩のライバルとは、どういうことなのだろう。水泳とは無関係なライバル。まったく心当たりがない。
でもひとつわかった。あの人私と同類なんだな、恋愛においては。
私は忘れ物を引っ掴むと急いで家路についた。
体験入部期間終了後、私は水泳部と弓道部に入部届を提出した。ちょうど練習日がズレていて助かった。例の先輩も、私が掛け持ちすることは気にしない様子だった。
入部後最初の部活動。水泳部はまず各々の実力を見たいということで、タイム測定から始まった。先輩は相変わらず私にだけ「遅いぞ岡野! ちゃんとやれ!」などと声掛けしてきた。
ただ泳ぐだけならまだしも、先輩からの圧にメンタルを削られクタクタになる私。同じ1年の部員からも心配される始末だ。なぜ私だけ怒られるのかみんなに訊かれたが、それはこっちが訊きたい。
新人のタイム測定が終わり、先輩たちの番になった。スピードだけなら並べる1年生もいたが、フォームが断然美しい。自分たちも1年頑張ればああなれるのかな、と羨望の眼差しで見つめる後輩たち。
私もそのひとりだったが、最後に大会出場メンバーが泳ぐことになって、あまりにも格が違うことにビビらされた。どうしたらあんなに速くなれるんだ。本当に人間か?
中でも別格だったのが、あの先輩だった。聞けば水泳界ではかなりの有名人らしい。泳ぐというより羽ばたくようなバタフライ。新人だけでなく2、3年生までもが思わず嘆息を漏らした。
ますますわからない。あんなに凄い人が、なぜ私を注視するのか。本来なら眼中にない存在だろうに。
「おい岡野」
泳ぎ終わった後、彼は私の前を横切りざまに囁いた。
「片付け終わったら俺のとこに来い。特別練習だ」
私はもはや天を仰ぐことしかできなかった。
みんなが解散した後、私は言われたとおり先輩の元へ馳せ参じた。着替えるなと言われていたために下は水着、上はTシャツである。
同じ格好をした先輩が私を見て立ち上がった。
「よし、逃げずに来たな」
「……何をするんですか?」
「勝負だ、岡野。先生を賭けて」
「先生?」
顧問の水谷先生のことだろうか。別に贔屓された覚えはないが、何かこの先輩には気に触る部分があったのだろう。
「あの、水谷先生なら先輩のほうが気に入られてるかと」
「水谷じゃねえよ、とぼけんな。ヨリ先生だ」
「ヨリ、せんせい……」
まさか、この人。
「高遠頼広。お前の家庭教師だろう」
ああ、この人が、先生が言っていたもうひとりの教え子。
最悪だ。
「あなたも好きなんですね、先生のこと」
「お前より前からな。後から出て来て横取りは許さん。勝負だ」
「ちょっと待ってください! 私が泳ぎで先輩に勝てるわけないじゃないですか!」
それはあまりに理不尽すぎる。
「安心しろ、お前にも勝ち目のあるルールにしてやる。来い」
先輩は足元に置いてあったバケツを掴むと、プールへと歩いていった。
プールサイドに立ち、バケツの中身をぶちまける。緑色の細長い物体が水の底に沈んだ。
「何やってるんですか?」
「今撒いたのは細かくカットされたホースだ。全部で50本ある。1本につき1点として、2人で潜って、より多くのホースを拾って得点を稼いだほうの勝ちだ」
「でもそれだと、やっぱり水に慣れてる先輩のほうが有利では」
「俺はお前がスタートした10秒後から始める。加えて、ホースの中には赤いテープが巻いてあるのが5本ある。お前が拾った場合のみ、5点分としてカウントしてやる」
「な、なるほど」
先輩が25本集める間に、私はテープ付ホース5本+普通のホース1本を拾えれば勝ちということか。
「じゃあ、準備はいいな」
「……はい」
「よーい……スタート!!」
水中に顔を沈め、プール全体を見渡す。とにかく最初の10秒で赤いテープを拾わねば。
しかし赤テープ付ホースはいい感じに散らばっていて、10秒間では2本拾うのがやっとだった。息も限界だ。
私が息継ぎのため浮上するのと引き換えに、先輩は潜水を開始した。
慣れた動きで次々とホースを拾っていくのがわかる。
やばい、この調子じゃ10本分のハンデなんてすぐ埋められてしまう!
私は焦って再び潜ったが、赤いテープはもう見当たらなかった。先輩に拾われてしまったらしい。仕方がない、普通のホースをなるべくたくさん拾わなければ。
私は夢中でホースを拾ったが、先輩はより効率的に集めていく。焦るばかりで息が持たない私とは裏腹に、先輩は長く潜ってもまったく疲れを見せない。
結果として、私は20点、先輩38点。私は大敗を喫した。
「これでわかったか、先生に相応しいのは俺だ」
「……っ、いいえわかりません。先生は私のような生徒を持って幸せだと言ってくれました!」
「ちっ、お子様が。いいか、長く息を止めていられるってことは、長くキスできるってことだ。そっちのほうが先生を満足させられるに決まってんだろ」
私は突然出てきた「キス」という単語に動揺した。顔が火照っているのを感じる。
「フン、この程度の話で赤面するとか本当にガキだな」
「せ、先生は淫らなタイプじゃないし、以前好みを訊いたら、私みたいな清純派がタイプだと言ってました!(大嘘)」
「なっ!?」
今度は先輩が動揺する番だ。へへ、ざまあみろ。
「と、とにかく大人の先生の相手は、お前みたいなガキには務まらない! 他の家庭教師に代えてもらえ!」
「嫌です! 先生は渡しません!」
「くっ、負けたくせに生意気な。先生の家にまで行きやがって」
「家? ああ、それで私の顔を知っていたんですね」
「そうだ。美術館で偶然すれ違った時に聞こえちまった」
「ふふん、私と先生はおうちデートをする仲なのです」
「で、でーと!? 勉強会とかじゃなかったのか!」
「あの日は勉強してません。1日中先生と熱い時間を過ごしました(オセロに熱中してた)」
先輩は私の発言にワナワナと唇を震わせた。が、すぐに取り繕って切り返す。
「ふ、ふん……ホラ吹いたって無駄だぜ。あの徳のある人が未成年に手を出すワケがない。1日子どもの面倒を見ただけ。ただのベビーシッターだ」
「ぐぬ……」
「……まぁいい。先生の収入のためだ、教え子でいることは認めよう。ただし負けた代償として、先生の家に行くのは禁止だ。いいな」
「……いつか、リベンジしますから」
「受けて立つ。俺の名は嗣永颯人、欲しいものはすべて手に入れる男だ。覚えておけ」
先輩はそう言って用具室へ入っていった。ホースを片付けるんだろう。
一方私は思いもよらないライバル登場に、どうにも表現し難い気持ちを抱たまま、更衣室のドアを開けた。
テーマ「やるせない気持ち」
8/25/2024, 5:31:40 AM