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「海の底」

初めて北の孤島を抜け出して、憧れていたこの都市へと降り立った。旅行に行くにもこの島内で、どんなに歩いて、列車に乗って、海を眺めようが、この島を出れることはなかった。その悔しさを噛み締めたのは、16の時だった。


「...ねぇ、聞いてる?」


雑音の中からピントが合うように、彼女の声が耳に届く。


「あ...ごめん、ちょっと考え事をしてて。」
「そう。じゃあ、またね。」
「ああ、気をつけて。」


その甘く可憐な声が途切れ、ピントが途切れる。彼女は混沌に混ざり合う。雑音がまた耳に響いた。イヤホンをポッケかた取り出し、耳に留める。雑音がぬるくなり、少しの安堵を得る。

信号が赤になった。無数の魚が下を向いている。

短針が北を向く時間だというのに、昼間のように眩しく、煩わしい水音が響く街は、太陽の光を知らなかった。

チカチカと光る広告看板を眺める。ずっとつけていて電気代は大丈夫なのかなぁと思った。後ろから押されるように、横断歩道を渡る。カンカンと足音が鳴り響いている。


立ち止まってはいけない。

そう言い聞かせて、歩幅を無理やり大きくする。

立ち止まってはいけない。

同じ方向へと無数に進む魚を見て、幼少期に行った水族館のことを思い出した。その魚が奇妙で仕方がなかった。

立ち止まってはいけない。

夕日に染まった彼女の髪と文庫本の色を思い出した。

どうしても地元を離れたくて、この街に強いステータスと欲望を抱いていたあの時期。唯一反対をしたのは彼女だった。夕方を反射する黒髪が揺れて、彼女は薄い唇を動かす。


「東京ねぇ、君には向いて居ないと思うけど。」


電車の音で目を覚ました。カーテンの隙間から白い景色が見えた。レールを動かす音が鳴る。雪は降っていなかった。未だにあの白昼夢を思い出す。俺は深海魚になれるだろうか。


1/20/2026, 5:43:26 PM