フィクション・マン

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『遠くの空へ』

あの空の向こうには何があるんだろうって考えているんだ。
ずーっと。ずっと。
人間は地に足をつく生物だ。鳥のように自由に空を飛び回ることも出来ないし、魚のように素早く深く永遠に水の中を泳ぐことも出来ない。
そう考えた時、自分はなんて不自由なんだろうと思い込んでいた時期があった。
もっと色々なことができたらなと思っていた。特に、空を飛ぶという夢は、昔から僕の憧れだった。
パイロットになりたいわけじゃない。僕自身が空を飛んで、あの雲の上を超えて綺麗な青空を見あげり、夜だったら美しい星達を眺めていたいと思った。
でも、そんなこと出来るわけが無い。当たり前だ。馬鹿馬鹿しい。
そう思いつつ、僕は今日も会社でせっせと仕事をしていた。
未読のメールが溜まる音、タスク管理アプリの通知音、電話の呼び出し音。
それらが交錯する中で、僕は一枚のエクセルファイルにしがみつくように、視線を這わせていた。
肩は凝り、背中は張り、心はどこか遠くへ行きたがっている。それでも締切は、待ってはくれない。
「頑張れ…自分を応援してくれる人は自分しかいない…」
そう呟きながら画面に向かい続けていると、上司がやって来た。
「あ、おつかれさ」
僕がそういう前に、デスクの上に書類の束が音を立てて置かれた。
「これ、急ぎで」
そう言って上司は去っていく。
頭が変になりそうだった。その書類の山を見て、自分は本当に何してるんだろうという気持ちで埋め尽くされる。
学校の友達は全員彼女もいてラブラブで今日も熱い夜を過ごすだとか僕にほざくし、皆休日はバーベキューとかドライブとか遊びに行ったりして…何がマイナスイオンだよ。僕はマイナスな空気しか吸えてない。こんなクソみたいなオフィスで彼女もいないし休日も少ないし給料も虫けら。
頑張ってる人間が馬鹿を見る時代だと、僕はつくづく思ってしまう。
結局その日も定時退勤できず、サービス残業で画面と向かい合っていた。
そして、終電を逃して駅で途方に暮れる。まぁ、こんなこと何回もあるから慣れてるんだけどさ。
生きてる意味がない。生きる気力も湧かない。疲労でやつれた顔を公衆トイレの鏡で見つつ、ため息を吐く。
「…空を飛びたい」
ここから家に帰るのも時間がかかる。いつもはタクシーで帰って高額な運賃を払ってるけれど、給料日前で金もないし、今は物凄く眠くてしんどくて頭も体もだるくてクラクラする。
公園のベンチで僕は座り、そのまま自分の体ズルズルと崩れ倒れる感覚がした。
「あー………………………………もうやだ」
そう呟いて目を閉じた時だった。
目を開けると、そこは空の上だった。
「…………は?」
理解できずに辺りを見渡してみるが、やはりここは雲の上。時間帯は夜で、星々はとても美しく輝いていた。
真っ黒に近い青色の画面に砂糖をばらまいたような、そんな細かい星達が僕を見つめてるような気がした。
僕はふわふわ浮いていて、なぜかその時の僕はそれが当たり前のような感じでバランスも上手く取れていた。
瞬時にわかった。
雲の下を覗こうとしたが、なぜか覗けない。街を見たわしたかったけれど、別に嫌な思い出しかないあんな人間が作り上げた構造物を見るより、自然の空を眺めようと僕は空を舞いながら星達を見つめた。
特にすごいと思ったのが月だった。あんなにも綺麗で美しい月を見ることになるとは思わなかった。しかもめちゃくちゃ月明りが凄くて、僕の体を包み込むような、太陽とは違う光が心地よくて気分が良い。
永遠にここでこうやって飛んでいたい。
僕は腕を頭の後ろで組み、雲の柔らかな布団に身を委ねるように寝そべった。
夜の空気はひんやりと静かで、風はまるで眠りを邪魔しないようにそっと吹き抜ける。
眼を開ければ、無数の星々が漆黒の天幕に散りばめられていた。
光は遠く、冷たく、しかし確かに温もりを持って瞬いている。
雲の上に浮かぶだけのこの瞬間、時間は緩やかに溶け、世界は僕だけのような気がしていた。
しかし、空を見ていると、僕の脇腹近くになにかの生き物がいたような気がして起き上がると、そこには一羽の鳥がいた。
シマエナガのように真っ白な小鳥で、とても可愛らしかった。僕が撫でようと手を触ろうとすると、その鳥が僕に喋りかけてきた。
「ねぇ」
鳥が喋った!!!!と驚くも、これが現実ではなく夢であるということを理解し、一気に冷静になる。
僕が深呼吸をして鳥に話しかける。
「どうしたの」
「ここにいたら、ダメだよ」
「……え?」
小鳥の表情は分からないが、その声色はどこか聞いたことがあるようなものだった。

この声、どこかで。




「ここにいたら、ダメだよ」
そう言って、彼女は入っちゃいけない屋上で横になる僕に注意を施す。屋上の扉は鍵をかけられてはいるものの、施錠されてないのに気付いた僕は屋上で時間を潰すようになった。
勉強もろくにせず、授業中スマホいじったり、漫画読んだりで散々なことしかしてない僕は、よく幼馴染の茉莉(まり)にしっかりしなきゃと言われていた。
茉莉は真面目で優しい性格で、よく妹や親戚の小さい子供の面倒を見ていたためか、少しお節介焼きな所がある。
親切心なんだろうけど、少しウザイというのが僕の本音だった。
「バレたらやばいよ。先生達に沢山怒られるよ」
「別にいいよ…どーでもいい。漫画読んでスマホ読んでれば僕は幸せかな」
本当に何を頑張ったって意味が無いと感じた。習い事で必死に課題をこなしても褒められない、上達を感じられない…親には見限られる始末だし。
だから僕も誰からも期待されたいとは思わなくなったし、応援されても余計なお世話だと思い込むようになった。
ただ、茉莉だけはずっと、僕のことを励ましてくれてはいた。余計なお世話だと思い込んでたとしても、心の縁では彼女の励ましは少しだけ生きる活力になっていたんじゃないかと思う。
だって、授業をサボっていても、一度も休むことなく毎日出席してるくらいだし。
茉莉の優しくて可愛い顔を見るために、茉莉と話すために、俺はこんな学校に来ていたんだということを、茉莉が死んでから気づいた。
茉莉は、最期まで素晴らしかった。飛び出した子供を庇うようにして車に衝突。子供の頭を手で抑えながら吹き飛ばされて、茉莉がクッションになったおかげで子供は軽い軽症で済んだらしい。
最後まで、本当に素晴らしい人間だったと、茉莉の葬式で僕は何度も何度も泣いて謝った。
たくさん、世話を焼かせて本当にごめん。茉莉のいうこと、全部無視して勝手なことばっかして困らせて本当にごめん。
泣いたって、どれだけ謝ったって、茉莉は戻ってくるはずがない。ボロボロと流す涙を拭いきれず、その場で崩れ落ちる。
大切な人を失ったあとは無我夢中で勉強もなにもかも頑張った。結果的に、まともな高校に入学することが出来て、そこでたくさんの友達と出会って、会社にも就職して…茉莉の分まで必死に生きようと思っていた。

でも。
結局。
自分の人生は充実なんかしていない。
クソみたいな会社で。
クソみたいな環境で。
クソみたいな生活で。
クソみたいな人間関係。
ほんと、全部。
意味がわからない。

空を飛べば、君に会えるかな…なんて、小学生の頃に夢見てた空を飛びたいたというものを、いい歳して思い込むようになるなんて、本当におかしくて笑ってしまう。
でも、会いたいんだ。茉莉に。

「……私も、凪斗(なぎと)が大好きだよ」
ポロポロと涙を流し、僕が小鳥に触れようとした時、足元の雲が沼の中に落ちるようにどんどん沈んでいく。
直感で、僕は夢から覚めてしまうのだと分かった。
「ま、茉莉っ!!!!」
もがきながら、僕は茉莉に何度も何度も伝えた。
「茉莉の事が大好きだ!!!そ、それなのに僕は…!!ごめん!!!本当にごめん…なさい…!!茉莉……!!沢山僕に手を差し伸べてくれたのに……!!」
ボロボロと涙を流しながら僕は茉莉に何度も謝った。
「凪斗君」
「……!!!」








「ありがとう」
















目が覚めると、見慣れない天井が視界に入った。
白い光と、無機質な機械音。心臓の鼓動がまだ荒く、体が鉛のように重い。
「ここは……病院………?」
思い出す。昨日の午後、公園のベンチで、ただ疲れ果てて目を閉じたことを。
肩にかかる重み、胸の奥の空虚。体を起こす力もなく、ただ日差しを浴びながら瞼を閉じていた。
どれほどの時間が過ぎたのか。
遠くで声がする。看護師だろうか、慌ただしい足音と優しい声。
思い出すのは、あの夢で出会った小鳥。あれは……茉莉だった。茉莉は白い小鳥のキーホルダーを持っていて、それにピピと名前をつけるほど気に入っていた。
そのピピの姿に似ていると、今になって僕は気付いた。僕が呆然としていると、看護師が少し驚きつつ優しい表情で話しかけてきた。
「あら、起きていたんですね」
柔らかな声が耳に届く。
「公園のベンチで倒れていた所を、通りかかった人が救急車を呼んでくれたんです」
言葉がゆっくりと胸に落ちてくる。思い出す、あの午後のベンチ、疲れ果てて目を閉じていた自分を。
看護師は微笑みながら、テーブルの上に小さな物を置いた。
「そういえば、カバンの中からこんなものが出てきたみたいです。起きたら渡してあげてと」

それは亡くなった彼女が以前、気に入っていた小鳥のキーホルダーだった。
手に取った瞬間、胸の奥で凍っていた何かが溶け、思わず涙がこぼれた。
夢の中でも会えた気がして、泣き笑いのような、どうしようもない感情が溢れる。
「……あの……どうかされましたか……?」
看護師は、涙を流す僕を前に困惑した表情を浮かべる。
それでと僕は手の中のキーホルダーをぎゅっと握りしめて沢山も涙を流した。

前より楽観的に物事を捉えれるようになった気がする。鉛のように重い体も、あの会社を辞めてから凄く楽になった。
新しいオフィスは静かで、窓から差し込む光が柔らかく、以前の慌ただしさとは比べものにならないくらい気持ちが楽になった。
同僚や上司は皆、協力的で気さくだ。
小さな確認や進捗の報告でも、丁寧に耳を傾けてくれる。以前なら焦りや苛立ちを感じることが多々あったが、今の僕は違う。
呼吸を整え、一歩ずつ進むことの価値を知った。
夕方、オフィスを出ると、街路樹の葉がゆらゆらと風に揺れている。
深呼吸をひとつ。
無理をせず、自分のペースで歩む道は、以前よりずっと穏やかで、確かなものに思えた。

遠くの空にいる茉莉へ。

君が見ていても、見ていなくても。

僕はしっかり生きていきます。

もう僕は迷わない。

君の分まで、精一杯生きていこうと思う。




「ありがとう」


8/17/2025, 3:30:53 AM