その日は酷く暑い日だった。
木陰で川に足を入れ涼んでみても、川の水は冷たく無い。
なんて事ない雑談だったと思う。今でもあの時の会話の内容を細かく思い出せないんだ。
「上手くいかなくたって良いだろ。やってみる事に意味があるんだから」
これは君の口癖。
僕は皮肉屋だから、そんな事言われたって上手くいくことに越した事は無いだろうと思っていた。
「やってみて失敗するより、成功した方が良いだろ」
「ははっ、確かにな」
少し歯並びの悪い白い歯が焼けた肌によく映えている。続ける言葉は、やっぱり綺麗ごとだ。
「でも、上手くいかないといけないって思うより、失敗しても大丈夫だと思う方が気持ちは楽だろ?」
「どうだかな。俺からしたら、失敗しても良いなんて甘い考えだよ」
「そうかぁ?…そうかもな。お前は、強いんだな」
「何が」
「俺にはそんな考え方出来ねぇよ。俺は成功を望める程強く無いんだ。だから、失敗を正当化してる。本当はそれだけの事なんだよ」
いつも眩しい笑顔も、その時だけは曇って見えた。君の中の影が落ちてきたような。いつもの笑顔の上に影が確かに波紋を広げていたんだ。
俺は上手い事も言えず「なんだそれ」と、ぶっきらぼうに返す事しか出来なかった。
あれは、君の弱さで僕の後悔だ。
*
夏の甲子園。高校球児が一度は夢見るあの舞台。
予選の決勝グラウンドは、9回の裏1点差の満塁フルカウント。
相手が抑えるか、君が打つか。全ては4番の君の肩に掛かっていた。
最後の夏、やっとここまできた。チームが、全校生徒が、あと1点を、その打撃を待ち望んでいた。
ピッチャーが投げ君が打つ。外角ストレートを君はしっかり捉えた。
高く上がる打球は弧を描き、レフト方向へと逸れる。3塁ランナーが走りホームイン。全員が打球の行方を目で追う。
レフトの守備が全力で走る。球が落ちてくる。
落ちてくる。
落ちてくる。
落ちてくる。
帽子を脱ぎすて、走るレフト。
ピッチャーはマウンドに崩れ落ち、キャッチーと内野手が駆け寄ってくる。外野手はレフトに駆け寄り抱きついた。
その顔は、歓喜の涙で溢れていた。
君は、俺たちは、負けた。
*
あの夏の日が終わり、新学期が始まった。
まだ汗ばむ陽気が続いているというのに、教室の中は冷たく感じた。
君の机には小さな花束が添えられていた。
あの夏が終わってから1週間と少し。陽射しで温くなった川の下流で、君は見つかった。
焼けた黒い肌は更に黒々と、膨れ上がった顔に少し並びの悪い白い歯だけが行儀良く置かれているようで。俺はその姿を直視出来なかった。
夏休み中に行われた通夜と葬式は、学校の半数の生徒が来る程だった。君の人望が伺える。これが俺なら、身内だけで済ませているところだ。
学校中の人気者。人望が熱く、明るく平等に優しい強豪校の4番バッターでキャプテン。絵に描いたような良い男だった。
惜しい人を亡くしてしまったと、参列者は口を揃えて言っていた。
『事故死』だった。川に遊びに行った際、誤って溺れ流されてしまったと後になり聞いた。俺は胸を撫で下ろした。
真実を知っているのは、俺だけで良い。
*
蝉の声が煩い暑い日だった。
君の部屋に入ると机の上に1枚の封筒、中身は『遺書』だった。
そこに書かれた懺悔を俺は読み、そしてポケットにしまった。
『前略……勝てなくてごめんなさい。打てなくてごめんなさい。あの時、俺が失敗しなければ。俺がちゃんと打てていたら、甲子園に行けていのに。失敗してごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。……後略』
*
「上手くいかなくたって良いじゃないか」
君の口癖を呟いてみる。
上手く事なんて、何も悪い事じゃないさ。人生そんな事ばかりだろ。
確かに甲子園に行けなかった事は残念だけど、誰も君を責めたりはして無かった。君と夏を過ごせた事こそが、何よりも大事な経験になったから。俺はそれで、それだけで満足だったんだ。
「失敗したって…上手くいかなくたって、良いんじゃなかったのかよ」
君の口癖は、みんなを救っていた。だからこそ決勝の舞台にまで俺たちは進めたんだ。
失敗する事を恐れずに受け入れる強さ。少なくとも、俺たちチームメイトは、君のその言葉に救われ続けていた。
だけど君は、君自身は、その言葉で自分を救う事が出来なかったんだな。
君は「失敗の正当化」と言った。あの時、俺は君になんて返していたら良かったのだろう。
まだ蒸し暑い空気と夏の陽射しが肌を灼く。温い川に足を入れ、木陰で空を仰ぐ。
隣に君はもう居ない。僕は皮肉屋だから、いつも君の綺麗事を否定していたよ。
だから、また君の言葉を否定しよう。
「君が失敗を悔やむなら、俺はその言葉を否定してやる。上手くいかなくたって良いじゃないか。やってみる事に意味があるんだから」
ひぐらしが煩く鳴いている。
青い空が少しだけ、霞んで見えた。
【皮肉屋な僕の夏休み】 #上手くいかなくたっていい
8/9/2023, 7:48:55 PM