『人に向ける優しさ』
「人には優しく接しなさい」
子供の頃に親に言われた言葉を今でも覚えている。
どうしてそういう話になったのか、たぶん友達に対してひどいことを言ったりしたのだろう。
その時から俺にとって人に優しさを向けることは、なんでもない当然の行為として身体に刻み込まれていた。
「ありがとう」
という言葉を何回聞いてきたことだろう。
感謝されるような行為は全て優しさを原理に行ってきた。
そんな俺の一日は優しさと感謝に満ち溢れている。今日もそんな一日が送られる。
朝の通学、いつものバスに乗っていると、お年寄りが乗ってきた。周りを見回すと席は一つも空いていない。優しさは時に目上の人に向けられる。
これは…と気づいた俺は
「席座りますか?」
と声を掛ける。
「あら、ありがとう」
とそのお年寄りはいい、席に座った。いいことをしたと心の中で密かに思う。朝からいい気分になるのはいいことだ。
学校に着くと、友逹が
「宿題見せて!」
と泣きついてきた。優しさは時に友達に向けられる。だがこの時俺の行動は一つとは限らない。この場合優しさの考え方によって行動は変わる。
果たして友達に宿題を見せるのが優しさなのか、はたまた宿題は自分でしなきゃ力にならないぞといってあげることが優しさなのか。毎回のように俺は迷う。だけど最終的には友達の困った様子に同情して
「しょうがないなー」
と言いながら宿題を見せる。そんなことを色んな友達に対してしてるので宿題のある授業の前は俺に宿題を見せてほしい者たちによる行列ができてしまう。頼られるのは喜ばしいことだが、こいつらは果たして大丈夫なのかなんて考えも浮かんでくる。
時が来たら自分でやれよと叱ってあげよう。きっとそれも優しさだ。
時は過ぎて昼休み、職員室の前でなにやら困っていそうな生徒を見つけた。きっと一学年下の人だろう。優しさは時に目下の人にも向けられる。
「どうしたの」
優しく声を掛けると、その生徒は少し驚いた顔を見せ、
「化学の先生を探しているんですが、職員室にいなくて、どこにいるのかって困ってて」
と返事をしてきた。化学の先生といえば少し心当たりがあった俺は、
「理科室とかにいると思うよ」
と答えてあげた。この時もし全く心当たりがない場合はその先生が受け持ってるクラスにいるんじゃないと答えるようにしている。聞いておいてなにも知らないじゃあまりにもだめだからだ。
時はまた過ぎて放課後、俺は部活をしに理科室に行った。俺は化学実験研究部という無駄に名前の長い部活に所属している。顧問は昼休みに探されていた化学の先生だ。理科室に着くと、部活の友人が実験をしようと準備をしていた。俺は思わず
「手伝おうか」
と声を掛けた。優しさは時に困ってない人にも向けられる。その友人は
「じゃあせっかくだからお願いするわ」
と言ってくれた。こういう時は断られることも多いからこうなるとなかなかに嬉しい。
部活が終わると俺は家に帰るためにバス停に向かって歩き出す。
優しさは時に数多くの人に向けられる。優しさを他人に向けるのは俺にとって当たり前だ。
家に帰るとどっと疲れが湧き出てきた。当たり前だとはいうものの、誰かに優しくするというものはいつでも疲れるものだ。俺はすぐに冷蔵庫からチョコとコーラを取り出した。
優しさは時に他人ではなく自分に向けられる。
「人に優しく、自分に厳しく」なんかじゃなくて、「人に優しく、自分にも優しく。」
今日も一日頑張った自分に優しさを与える。こうやって疲れた日は大好物のチョコとコーラで自らを癒やす。一人で空に向かって乾杯をして、
「お疲れ様です」
そう言って俺の優しさに溢れた一日は終わりを向かえる。
1/27/2024, 11:35:02 PM