かつて愛した誰かがいた。きっと、そうだった。
幸せな日々が無数にあった。あったはずなのに。どうして、無数にあったと、それ以上を思い出せない。今更になって気づいたのか。思い出をいくつ作っておけば良かったのか。
剣を振るうこと、国を守ること。それが自分の生業だった。そんな自分と接点のあるその人は、ああ、そう、城門付近の花売りだった。
愛おしかった。貴女の全てが。そう伝えたら、同じ気持ちだったと、頬を赤らめながら、そう言った。夢だと何度も疑った。何度瞼を開けても、覚めることはなかった。
初めてできた宝物だった。
守りたかった。何よりも大切にしたがった。
だから、遊びだと言った。
襲うつもりだった、そこまで徹底して。けれどついぞ、足はでなかった。
それでも良かった。彼女は泣きながら深く傷ついたようだったから。そのまま裸体のまま、走って逃げた。適当な理由をつけて、他の騎士を、真面目なやつをあらかじめ近くに呼んであった。彼女は、きっと無事に保護される。
懲戒処分。当たり前に僻地に、激戦区に飛ばされる。自慢じゃないが、自分は強かった。遅かれ早かれ、ここに来ていた、そう分かっていた。ただ胸に星があるか否かの違いだけ。そうして隣に誰かが、いるかいないかの、違いだけ。
この仕事をやめるという考えはなかった。祖国を愛していたから。ほっとした。迷う理由がなくなった。どこまでもいけた、自身の太刀が届くだけ、誰かの為になると思えたから。
いつか戦友が、そういう奴は怖いと言った。お前は、怖い、鬼のようだ。だが敵さんにも恐れられている。結構じゃないか、と。
生傷が増えた。これが絶えることはないのだと悟った頃、罪の清算が終わったのか、何時しかの栄誉が漸く回ってきた。任務地は変わらない、予想通り。けれど胸に星を戴けるらしい。だから一度都へ戻れと、そう通達がきた。
一度は目を疑った。
かつて愛した誰かがいた。
幸せそうに、逞しい青年に腕を絡ませて歩いていた。
心の底から祝福できた、多分、嘘じゃない。
けれど何故か、僻地に戻れば心なしかの、安息を覚えた。
やれ宣戦布告だとどちらかが言い出せば、益々土煙は激しく立った。鬼の首はいつ何時でも高値がつく、らしい。轟いた悪名の分だけ、押し寄せる数も増えた。一向に構わない、それでも後ろに守るべきものがあるのなら。やることは何一つ、変わらないのだから。
思い起こすことが増えた。彼女の影を見た。幻だと知っている。
背中を切られた。唸り声は雄叫びに変えて。痛みも幻だと、知っている。
思い出したい筈なのに。どうしてこんなに朧げで。目を擦る。視界は未だに拓けている。
かつて愛した誰かがいた。今は顔も思い出せない、誰かが。
それだけ。きっと、そうだった。
一騎当千の栄誉の果てに、幾千万の骸の上に、終に身体は崩れ落ちる。
友軍の声が聞こえた。ならばもうすぐ戦も終わる。
なぁ、もう、いいかな。
疲れたんだ、少しだけ。
少しだけ、夢の続きを見ることは許されるかな。
【瞳をとじて】
1/23/2025, 7:19:36 PM