雪の降る見知らぬ街中を、一人歩いていく。
どこか閑散としていた故郷とは違い、街はとても賑やかで忙しない。行き交う多くの人々は皆、軽く俯きながら足早に通り過ぎている。
「どうしようかな」
目的がある訳ではない。この街へ来たのも、ただの偶然だ。
立ち並ぶ店先を冷やかしながら、ぼんやりと思う。
街で見る景色は、どれもが故郷ではないものばかりだ。以前ならばきっと、目を輝かせて見入っていたのだろう。けれど今は、特別何かを思うことはない。
無意識に、足が静かな場所を求めて路地裏へと入り込んでいた。街の喧騒が少しだけ遠ざかり、小さく息を吐く。
賑やかさは、自分には合わないらしい。苦笑して、薄暗い道を雪を踏みしめ歩いていく。
「あれ?」
ふと、道の先が明るいことに気づく。
よく見ると、それは店の看板の灯りのようだった。
手作りらしい、木の看板。ガラス越しに見える店内では、どうやら雑貨品を売っているようだ。興味を引かれて、扉に手をかける。
からん、とベルが鳴る。だが店内に人がいる気配はない。
不思議な店だ。足を踏み入れた瞬間、ふわりと漂う香の匂い。木の香りと混じり、不思議と心が落ち着いてくる。
思わず深呼吸して、店内を見回した。
手作りなのだろうか。可愛らしい小物が並んでいる。
「可愛い」
木彫りの人形を手に取り、呟いた。
可愛らしい女の子の人形。妹はきっと気にいるだろう。
隣にある、木彫りの飛行機は弟が好きそうだ。向かいの棚にあるアクセサリーを母へ贈ったら喜んでくれるだろうか。
次々と目に入る小物やアクセサリーに思い浮かぶのは、全て家族のことばかり。故郷を、家を出ても、家族からは離れられないようだ。
苦笑して、人形を棚に戻す。
空しいわけではないが、何だか興味が失せてしまった。
「いらっしゃい」
不意に奥から声をかけられて、ぴくりと肩が跳ねる。
弾かれるようにして振り返ると、カウンターの奥で店主らしき女性がこちらを見て微笑んでいた。
「あ、すみません」
「謝ることは何もないさ。ゆっくり見ていっておくれね」
「はい……」
見て行けと言われても、気分が乗らない。しかしそれを正直に女性に告げるのも憚れた。
気乗りはしないものの、店内を見て回る。可愛らしい小物やアクセサリーは、どれも故郷にはないものだ。それなのに故郷の誰かが常に頭に浮かんでくる。
そっと息を吐く。このままここにいても意味がない。
店を出ようと、女性に視線を向けた。
「あの……」
「真面目だねぇ。優しすぎるともいうべきか。だが、たまには息抜きが必要さ」
おいで、と手招かれ、断ることもできずに店の奥へと向かう。
そこは、小さいながらもカフェのようだ。促されるまま、カウンター席に座る。
「特別サービスだ。余分な荷物を下ろせる、そんな魔法をかけてあげよう」
そう告げられて、手際よく棚からガラス瓶をいくつか取り出した。
乾燥した草や花を混ぜて、ポットに入れる。聞きなれない言葉の歌を口ずさみながら、ポットにお湯を注いでいく。
ふわり。湯気と共に、不思議な香りが辺りに広がっていく。甘く、草原を思わせるような爽やかさがあり、けれどもとても心地の良い香りに、体から力が抜けていくのを感じた。
無意識に、緊張して力が入っていたのだろう。いつものことだ。そうぼんやりと思いながら、カップに注がれる、煌めく金の色をした紅茶を見つめていた。
「さぁ、どうぞ」
「ありがとう、ございます」
カップと共に蜂蜜の瓶を置かれ、目を瞬く。
紅茶に入れろということだろうか。不思議に思いながら一匙、蜂蜜を救って紅茶の中へと入れる。
とろり、と溶け込んでいく蜂蜜。くるりとスプーンでかき混ぜれば、甘い匂いが立ち上る。
とても心地良い気分だった。どこか夢見心地で、カップに口を付けた。
「――おいしい」
「だろう?魔法をかけているからね」
くすくすと女性は笑う。
「それを飲んでゆっくりしたら、余分な周りへの気持ちも軽くなるはずさ。そうしたら、ゆっくり店内を見て回るといい。気にいるものが、必ず見つかるからねぇ」
「余分な、気持ち……」
紅茶に視線を落としながら、家族を思い浮かべる。
弟妹の笑顔。母の手の温もり。父の声。
けれど、どうして先ほどよりも形にならない。ぼやけた輪郭が残るだけ。
「あぁ。心配せんでも、ここを出る時には戻っているよ。その魔法は長く続くようなものではないからさ」
女性の言葉に、密かに安堵の息を吐く。
完全に忘れたいわけではないのだ。安心すると、途端に体が軽くなってきた気がした。
カップに口をつける。優しい甘さが口の中に広がり、じんわりと体が温かくなっていく。
気づけばカップは空になり、ゆっくりと席を立つ。店内を見回せば、店内の装飾も商品も煌めいて見えた。
「可愛い」
さっきは感じなかった、胸の高鳴り。忘れてしまったはずの感情が込み上げて、見るもの全てが魅力的に見える。
もう一度店内を見て歩く。作り手の思いが込められている商品たちが、どこか誇らしげにしている。そんな風に見えて、笑みが浮かぶ。
ふと、棚の上に置かれた可愛らしい装飾の施された小さな木箱が気になった。手に取り開くと、軽やかな音楽が鳴り始める。
「オルゴール……」
昔、皆には内緒で、父と二人きりで出かけたことを思い出した。いつも頑張っているご褒美だと、見に行ったクラシックコンサート。あの日の光景が鮮やかに浮かんで、少しだけ視界が滲む。
「それにするかい?」
問いかけられて、振り向いた。
優しく微笑む女性に頷いて、オルゴールを手にレジへと向かう。
「この子は、どんな時でも寄り添ってくれる。また抱えてる荷物が多くなったら、ほんの少し持つのを手伝ってくれるさ。大事にしておくれね」
「はい」
丁寧にラッピングされたオルゴールを受け取る。
軽く頭を下げれば、段々と故郷や家族の姿がはっきりと浮かぶのを感じた。
「あの……」
女性を見つめながら、逡巡し口籠る。
またこの店に来たい。けれどそれを言う勇気が出ない。
言っても本当にいいのだろうか。迷惑かもしれない。断られたらどうしよう。
色々な悪いことが頭を過ぎていく。やはり何も言わないで帰るべきかと視線を落とせば、ラッピングのリボンがふわりと揺れた。
まるで頑張れと言っているようだ。小さく笑い、顔を上げた。
「あの、また来てもいいですか?」
「もちろん。この魔女の隠れ家Aisling《アシュリン》は、いつだって歓迎するよ」
「魔女の、隠れ家……」
微笑む女性の姿は、確かに魔女のようだ。優しくて、人を導く良い魔女。
「ありがとうございます」
笑顔で頭を下げる。
帰ろう。そう思い、晴れやかな気持ちで頭を上げた時、後ろでからん、とベルが鳴った。
「どうやら、お迎えが来たようだね」
女性の言葉に首を傾げながら振り向く。
開いた扉の向こうには、誰もいない。ただ白い雪が舞っているだけだ。
「あ……」
「大丈夫さ。行っておいで。また重くなり過ぎたら、ここに戻ってくればいい」
そっと背を押され、ゆっくりと扉の向こうへと歩いて行く。
じわりと視界が滲む。胸が苦しくなり、うまく呼吸ができない。
そっと手を伸ばした。触れる雪が手を包み込んでいく。
「――お父さん」
掠れた声で呟いた。
それに応えるように、雪が体に降り積もっていく。
まるで抱きしめられているかのような温もりを感じて、一筋涙が溢れ落ちた。
20260128 『街へ』
「I love……」
口から溢れだそうとした言葉を飲み込んだ。
形にはできないそれ。中途半端な言葉は、吹き抜ける風に乗って高く舞い上がり、残るものは何もない。
空を見上げ、そっと息を吐く。白く濁り消えていくそれに、ただ胸が切なくなった。
「それは誰に向けようとしたの」
呟く声に、視線を向ける。
誰もいない。
当然だ。雪の深いこの森の奥に、訪れる誰かがいるはずはない。
「愛だなんて、形の定まらないものを誰に向けようとしたの」
声が囁く。風が雪を舞い上げるように軽やかに、木々の枝を揺するような力強さで、無感情に告げる。
「さあね」
姿のないそれに向けて、小さく答えた。
誰かに向けた言葉だったのか、もう覚えてはいない。空なのか、風なのか、あるいは遠い昔にここを離れていった誰かにあてたものだったのか。
誰にも向けていなかったのかもしれない。
「残るものがないから、思い出せない。誰でも良かったんじゃないかな」
「誰にも向けない愛に、意味はあるの」
「さあ?誰かに向けて愛を語ったことなんてないから、誰にも向けない愛との違いなんて分からない」
自嘲して歩き出す。声は近すぎず、離れすぎない距離で、囁き続けている。
「分からないのに、愛したいの」
「ただの真似事だよ。皆が口にするから、言葉にしようと思っただけだ」
「愛とは、何」
「何だろうか。暖かいものだとは聞いたことがあるけれど」
問いかける声に、足を止めずに言葉を返す。
よほど意外だったのだろうか。浮かぶ疑問に意外だろうなと、ぼんやり思う。
一度も言葉にしたことがないものだ。異国の言葉では誤魔化しきれなかったのだろう。
「神様」
ぽつりと囁かれた言葉。
思わず、足を止める。
「違うよ。人間が神だと祀っただけで、誰もいない今は、名前のない何かだ」
見えない声を見据え、告げる。
ざわりと、木々が揺らぐ。どこかで、すすり泣く声がした。
「神様」
誰かが呼ぶ。ざわざわと木々を揺らし、あちらこちらで囁く声がする。
「神様」
呼ぶ声に、応えなかった。誰もいないこの場所で、かつての呼び名は、認識は何の意味も持たない。
風が雪を舞い上げる。白く染まる視界の向こうに、小さな影が佇んでいるのが見えた。
「ねえ、神様」
澄んだ眼差し。悲しむのでもなく、況して嘲るわけでもない、無垢な瞳。
瞬きもせずこちらを見つめ、問いかける。
「愛がないから、寂しいの?それとも、愛したことを後悔したの?」
静かな声に、息を呑んだ。
言葉を返そうとして、掠れた吐息だけが溢れ落ちた。声は喉に張り付き、形になるのを拒んでいる。
喉に手を当て、ただ首を振った。それだけしかできなかった。
「わたしたちは、きっと寂しい」
「でもこの終わりに、後悔はない」
「愛された。だから愛そうとした。ただそれだけ」
いくつもの声に、優しさはない。事実を語り、思いを告げているだけだ。
目を伏せ、声を聞きながらかつての日々を思う。
決して豊かではなかった。
だが誰もが笑みを浮かべ、日々を生きていた。
「――愛とは、とても難しい」
気づけば、思いが溢れていた。
「愛してくれていたと思った。だから同じように愛を返した。与えられたものと同等を、返したはずだった……何が違ったのだろう」
顔を上げ、かつての営みがあった場所に視線を向ける。
そこには何もない。何もなくなってしまった。
「I love you……外から来た人間は、そう言って愛を返していた。誰かに向けた愛はとても美しいものだった。喜び、笑顔が溢れて……それを与えられたらと思っていた」
金に煌めく髪を持つ少年が、小さな花を手に少女へと告げた言葉。
驚きに目を丸くし、ふわりと微笑む少女を覚えている。その笑顔を見て、顔を赤く染めながらも同じように笑った少年の顔も。
「本当に、愛とは難しいものだ」
ただ一人、あるいは一つに向けての言葉なのだろうか。
形の定まらない思い。簡単でいて、とても難しい言葉。
けれど、今更知ったとしても、もう遅い。
「――眠るよ。きっともう二度と目覚めはしないのだろうけれど」
「神様」
「おまえたちは、風と共に好きな場所に行くといい」
ざわり、と木々が騒めく。舞い上がる雪の向こう側に佇む影の目が、微かに揺れた。
「I loveに続く言葉を知らないまま、間違った。おまえたちは、言葉を見つけられたらいいね」
笑みを浮かべ、目を閉じる。
いくつもの声を聞きながら、形を溶かして意識を深く沈めていく。
ここには誰もいない。
二度と目覚めることはないのだろう。
「――あった」
「間違いない。祖母ちゃんが言っていた通りだ」
誰かの声が聞こえた気がして、沈んでいた意識が僅かに浮かぶ。
「残っててよかった。お祖母ちゃんもきっと喜ぶね」
「ちょっと!置いてかないでよ!」
「ごめんごめん。でも見つかったよ」
知らない声。知らない気配。
誰もいないはずのこの場所に、誰かが足を踏み入れている。
ゆっくりと目を開けた。社の前に複数の男女の姿が視界に映る。
誰だろうか。彼らに見覚えはないというのに、どこか懐かしさを感じる。
「これ?お祖母ちゃんが言ってた神さま」
「そうみたいだな」
「社を壊そうとしたら祟られて、雪に沈められたんでしょ?動かしても大丈夫なの?」
何を言っているのだろう。まだ、はっきりとしない意識では、彼らが何を言っているのかよく理解ができない。
社を壊すのだろうか。だが移動するとも言っていた。
触れる手が暖かい。彼らは誰で、どこへ行くのだろうか。
「大丈夫。ちゃんと手順を守れば問題ないよ」
「じゃあ、早く終わらせて帰ろうよ。お祖母ちゃんが会いたがってるし、神さまもこんな寂しい所にいつまでもいるのはかわいそう」
「だな。さっさと準備をするか」
懐かしい光景。懐かしい音。そして言葉。
意識が浮かぶ。言葉が全身に広がり、形を伴ってはっきりと目を開けた。
祝詞を奏上する男。その背後に控える二人の女性。
その一人と、目が合った。
「あ、神さま!」
笑顔で手を振られる。
無邪気な仕草。初めてのことに、どう返せばいいのか分からない。
「一緒に帰ろうね、神さま。お祖母ちゃんも待ってるよ!」
花を手に、微笑む少女の姿が浮かぶ。
彼女の面影を宿した三人に、あぁ、と思わず声が漏れた。
彼女の元へ行くのか。あの異国の彼もいるのだろうか。
「異国の彼?誰のことかしら」
「異国?外国人ってことでしょ……あ、お祖母ちゃんに告白して振られた人じゃない?」
振られた、ということは、一緒にいないということだったか。
やはり、愛とは難しい。
「おまえら。煩いぞ」
「だって神さまが!」
「知るか。俺はお前らと違って、見えも聞こえもしないんだ。お前らが騒いでいるようにしか聞こえん」
「そんなに拗ねないの。それより、終わったなら早く帰ろう」
随分と賑やかな三人だ。それでいてとても優しい子らだ。
片付けをしながら楽しげに話す彼らを見て、そう思う。
祝詞を通じて伝わる、温かな思い。与えられる愛に、胸が苦しくなる。
これは返していいものだろうか。何もなくなった雪原を思い出し、困惑する。
「帰ろう!神さま」
差し出される手に、迷いはない。
その手を見ながら迷い、戸惑いながら手を重ねた。
溢れる笑顔。かつて求めていたもの。
I love you.
それを伝えた少年は、けれど今少女と共にいないのだという。
一人に向けた愛も、必ず報われるわけではないらしい。
この愛を返しても、本当にいいのだろうか。
誰に向けた愛ならば、傷をつけずに笑顔を咲かせられるのだろう。
I love…
それに続く言葉は、まだ分からない。
20260129 『I LOVE...』
1/29/2026, 10:17:23 AM