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燃える葉

【幻のような赤、彼の棘】
「覚えているかい、あの赤い光景を。まるで燃えるようだったね」

彼は汗ばんだ手で私の髪の毛を撫で付けながら言った。指先に力を込め、こめかみから後頭部へと押さえつけるように撫でた。

「あまりにも全てが赤く、幻想的で夢のようだった。思えばあの鮮やかに燃えるような赤は暗示していたのかもしれないね、僕らの行く末を」

いつからだろう、彼のこういう言い方が怖くなったのは。出会った頃は謎めいて魅力的だった。でも今はそう思えない。棘を含んだ言葉の裏に忍ばせた真意が読み取れるかどうか、試されてるみたい。彼の言葉に何の意味も正解も見出せない私は、厳しい選別を受けているような気になる。でも、そうだね、覚えている──あなたの言う通り幻想的な赤い光景だった。
夜の赤い道。低い位置からライトアップされた紅葉の中を私たちは歩いた。私たちを取り囲むように伸びた赤い枝葉は、確かに燃えるようだった。あの時、あなたは私の手を強く握っていた。まるで手を離したら最後、永遠に離れ離れになってしまうかのように。あなたはいつも、手を強く握った。強すぎるほど。迷子になってしまうのが怖い不安気な子供みたいだった。

──覚えている。あの夜、私たちが見た光景。赤く幻想的で現実とは思えないほど綺麗だったね。

答えたいのに答えられない。身体の感覚が麻痺しているみたいに口も手も動かせないの。ねえ、一体これは何?……私たち、どこに向かっているの?


【記憶の中の赤、君に言いたかった言葉】
君は覚えている? あの見事な紅葉。あの光景を見た君は、まるで燃えているみたい、って言っていたね。

僕は君の笑顔が好きだった。笑ったらシワが出ちゃう、と君は言ってたけど僕は君の笑った顔が今でも好きだ。控えめだけど柔らかくて君の人柄そのもの。昔、まだ皆で会っていた頃、その笑顔を見たくてくだらない冗談を言ったのは僕だけじゃないって知ってた?僕たちみんな君に笑ってほしかった。

外泊許可がおりた日に君が行きたいと言ったのは、紅葉の名勝だった。
あの時の君は、久しぶりに外の空気を吸ってすごく伸び伸びとしていた。
ちょうどライトアップが始まったばかりの夕暮れ時。薄紫の空を背にした紅葉は、言葉を失うほどあでやかで、まるで赤い布を広げたようだった。目に焼き付けるように、君は赤い光景にじっと見入っていた。その時、君は言ったんだ。

──なんだか不思議。枯れてしまう前にこんなに美しく色づくなんて。まるで命を終わらせるために、燃えているみたい。

僕は何も言えなかった。
何も言えず、ただ君の手を取った。ひんやりと冷たく乾いた君の手の感触が今でも忘れられない。あまりにも細くやせ細っていた。僕はそっと、その手を握った。少しでも温もりを伝えることができるように。

──来年もまたここに来よう、その次の年も、その次も。

そう言うだけで精一杯だった。
あの時僕は、別の言いたい事があるはずだった。でもなかなか言葉にならなく、もどかしさが募るばかりだった。あれからずっと君の言葉が頭に残っている。考えてきたんだ、僕は君に何を言うべきだったのか。

今日、僕はまたあの場所を訪れた。君と二人並んで見た時と同じように、見事に色づいた赤い光景が目の前に広がっている。


【燃え始める赤、動かない身体】
降り積もった枯葉っていうのは、そんなにフカフカしてるわけじゃない。
乾いているように見えて案外中は、じめっと湿ってたりする。
突き飛ばされた私が、呻きながら思ったのはそんなことだ。
必死でもがいたけど、身体が痺れて思うように動けない。
後ろから突き飛ばして、無様にもがく私を冷たく見下ろしているのは彼。どうしてこんなことになっているんだろう。正解が分からなかったから? 

どうやらここは山の奥らしい。ここに来るまで彼はずっと無言だった。
停車して車から私を引きずり降ろすなり、突き飛ばした。屈辱をよりも感じていたのは、ただ恐怖たった。逃げよう……逃げなくちゃ、でもどこへ?私は後ろで手を縛られているし、叫んで助けを呼ぼうにも口は粘着テープで塞がれている。第一こんな山の中で叫んだって誰にも届かない。おまけに昨夜からずっと身体が痺れていて感覚がよく分からない。自分の体なのに、上手く動かせない。
思考もまとまらない。何を考えようとしてもまとまらず霧散していく。きっと薬でも飲まされたんだろう……何が理由でこうなったのだとか、どうやってこの状況から逃げ出せるのか、とか、考えれば考えるほど朦朧としていく──でも多分、私はもうすぐ終わる。

「君のことが分からないよ」
彼の声が聞こえる。カチリとした音を耳が拾う。これはライターの音。
「どうしてなのか分からないよ──何が君の心を変えてしまったんだ?別れたいだなんて、そんなこと言い出すなんて」

私はもう動けない。目に入ったのは赤く色づいた木々の葉。紅葉ってこんなに鮮やかな赤だっけ……まるで燃えるよう……
焦げついた匂いが、じわりと鼻を刺した。


【ひとりで見る赤の景色】
木の香りがする、と君は深呼吸をした。
確かに山の中の空気は澄んでいるけど、冷たい空気を深く吸い込むと咳き込んでしまうのでは、と僕は心配でたまらなかったんだ。
紅葉の景色を眺めながら、君は呟いた──あなたに言っておきたいことがある。
そして君は、弱々しいけどしっかりした声で、僕に告げてくれたのだった。

「ありがとう、ここに連れてきてくれて。今日、ここに一緒にいるのがあなたでよかった……本当に良かった。ありがとう」

君のその言葉にどうしようもない思いが込み上げた。
君の「ありがとう」は感極まるものがあったけど、同時に一番聞きたくない言葉でもあった。何故ってほとんど遺言みたいだったからだ。言える時に言っておく感謝の言葉みたいで、そんなの僕は嫌だった。

「僕はいつだって君と一緒にいるから」

そう言う時、僕は心のどこかでいつも考えていた。あとどれくらいだろうかと。病魔におかされていく君と共に過ごせるのは、あとどれくらいだろうと、考えてしまっていたんだ。君に分からないよう必死に涙を堪えたつもりだったのに、涙声になった。そっと涙を拭った僕を見て、また君が笑っていた。

今、目の前では、あの時と変わらない見事な赤が視界いっぱいに燃えている。君はもういない。僕は一人になってしまった。


【赤い炎の中で】
麻痺した身体は、涙も流そうとしない。
すぐそこで赤く炎が燃え上がっているというのに。でもあの炎に包まれたら、私も熱くて痛くて絶叫して転げ回るのかもしれない。彼は私のそんな姿を見たら気が済むのだろうか。
目に入るのは、黒い煙が立ち込める空と、炎のように広がって伸びた赤い枝葉。
ねえ綺麗だったよ。あの時あなたと見た光景は本当に綺麗だった。上手く生きられないあなたを好きだったこともあったのに。あなたといると私は削られるようだったけど、あなたもそうだったの?
もうどうでもいいかな……
もっと生きたいと強く願えばこの身体は動くことが出来るんだろうか。
そう強く願えるほどの理由が私にもあったらよかった。私に生きててほしいと願う人なんて、何処にもいない。
赤い葉が燃えながら舞っている。せめて最後に美しいものを焼き付けようと、私は目を見開いた。


【赤への祈り】
今日、ここに来たのは、あの時言うべき言葉を君に伝えたかったからなんだ。もういなくなってしまった君に。ごめん、遅すぎるけど……でも言いたい。誰もいないのをいいことに僕は、君への思いを口に出して伝えた。

「前にここに来た時、君が言ったことを覚えている? 枯れてしまう前にこんなに美しく色づくなんて、まるで最後の命を燃やそうとしているみたいだって君は言った。……でもそれはきっと……終わらせるためじゃなくて、世界を美しく照らすためなんだよ。だから生きた証として心に残ってる」

こんなことを言うのはちょっと恥ずかしい。世界を美しく照らすとか、生きた証とか。でも誰もいないからいいだろう。きっと君が聞いたら、あの柔らかな笑顔を見せてくれるはずだ。

あの頃僕は、君はあとどれくらい生きられるのだろう、そんな風に考えてしまう自分が嫌だった。きっと君はそんなのお見通しだったと思うけど。
本当はなりふり構わず君に言いたかった。生きて欲しいと。でも日に日に弱々しくなっていく君に伝えるにはどこか酷な気がしていた。
生きてほしかったんだ。生きて、生きて、生き抜いてくれ──そう言いたかったんだ。
目の前には、鮮やかな赤が広がっている。
僕はまた祈るような気持ちでこの美しい光景を見つめていた。
この赤は終わらせる為じゃない。世界を照らすために、生きた証として誇らしげに赤く燃え上がっている。


【赤く燃える葉】
薄紫の空の中に、私を焼く炎とともに赤い葉が舞い上がる。
火の中で蝶のように舞い続ける赤い葉は、生きて、生きて、と言ってるみたい──そう思った途端、私は自分が泣いていたことに気がついた。
私は赤い葉に向かって、手を伸ばす。まるで誰かの願いを届けるかのように舞っていて綺麗だ。痺れるこの手はまだ、燃える葉に届くだろうか──



10/7/2025, 9:40:57 AM