静かな夜明け
本日の前説。
お主は、ほんに無頼で我儘な奴じゃ和尚は小僧に言った。本当に何処へ行っても何を見ても自分主役で困ったものだ。お前に嫌われても誰も困らんことを覚えておけ、だいたいこっちが嫌いな奴はあっちもお前を嫌っていることを知っておけ、だから離れて行くんじゃ、それをお前は自分主役で見て裏切られた!と言って、態々覚えて恨み言を並べる。それはな、お前が自分勝手に、その人に被せた面の皮が剥がれただけで、嘘でも裏切りでもなくもうひとつの真実なんじゃよ、お前が信じて創っていたその人の顔と、違う顔が見えただけで、嘘でも裏切りでもないと心得よ。そうして、仮に自分の信じた一面と違う一面が見えただけで、心が離れてしまう様なのは、共にそれだけの縁であったということだ。それを何時までも後生大事に根に持って被害者ぶるのはよせ、自分の値打ちを下げるだけだということに気づけ。嫌い恨んで恨み言を言ってるうちは、その者との縁を断ち切れず、自分の方がその切れた縁にしがみついているだけであると気づけ、そう言って和尚は「源氏物語」の六条御息所の章「夕顔」巻のを指し示した。源氏物語は、日本最古のハーレクィン・ロマンスであるが、人の縁を描いた書でもある。
一方アメリカでは、アメリカ人男性のheartを鷲掴みにして離さないのが「ゴッドファーザー」である、ゴッドファーザーは傑作のビジネス書である、「味方は近くにいる、敵はもっと近くにいる」「ソニーはことをはじめる(戦いをはじめる)いい場所を見つけておけ」生き馬の目を抜くビジネスの世界は「go to the mattresses」なのであるwww 長く読み継がれ語り継がれる愛されるものには、それなりの意味があものだ。自分に合うか合わないか、正しいか正しくないかは、置いておいて、手にとってみるのも悪くないのである。
静かな夜明け
夜明け前が一番、静かでそして寒い。
凍てつくような、静寂が支配する白く空が明け来る、静かな夜明け。
「木曽路はすべて山の中にある…」という有名過ぎる書き出しで始まる島崎藤村の偉大なる書は、中山道の宿場馬籠宿で17代続いた庄屋に生まれ育った半蔵が、伝統を重んじる国学に心酔し江戸に赴き、その大家である平田鉄胤の門下に入る。半蔵は王政復古の実現を信じて奔走する。しかし、現実は西洋文化にかぶれた文明開化と、政府による民への圧迫は激しさを増し慎ましく静かに生きようとする市井の人々を戦争という時代の津波に飲み込もうとしていた。
姓を与えられても、国家の戦争の道具でしかない地位無き人々。これならば幕藩体制の徳川の世の方が、彼等は静かに生きることが出来たのではあるまいか?と半蔵の精神は大きく揺らぎ、明治天皇行幸で通りかかった時には扇子に国家を憂う短歌をしたため、直訴しようとして処罰され身内の半蔵への目は冷たくなる一方であった。それでも当の半蔵は麗しく気高き我儘な我が理想とそれを求める正義感と叶わぬ現実との板挟みに喘ぎ、江戸に行くもまたもや処罰され、故郷に連れ戻され隠宅で隠居生活をおくる羽目になる。やがて自分の現実と理想やりたいことと出来ること、あまりにも高過ぎ潔癖過ぎる理想的自己陶酔に、ついには狂乱放火事件を起こし、父の手により座敷牢に入れられてしまう。やがて半蔵は次第に衰弱し、56年のその生涯を閉じる。国学を志し高き志しと正義感に燃え、守ろうとした木曽の海を知らぬ住民たちに疎まれ身内父親にさえ疎まれながら生涯を終えた、志し高きエリート半蔵。その死を悼むのは、書生ただ一人であった。その終わりは、始まりと同じように静かな夜明けであった。
夜明け前が一番、静かで冷たい。
って読書感想文を中二の頃書いてコンクールで賞を頂き、地元新聞に掲載され勘違いしたのは、遠い昔のお伽噺のような出来事でした。その新聞が大事そうに仕舞われていたのを見つけたのは、祖母の遺品整理実家の仏壇仕舞いをしている時に、仏壇の奥の引き出しから見つけたのでした。言葉では言い表せない柔で深い愛情に、つつまれた出来事だった。
夜明け前の静けさ。
作者 島崎藤村 「夜明け前」の感想文一部抜粋。
令和7年2月7日
心幸
2/6/2025, 1:54:59 PM