キリスト系の幼稚園に通っていた頃、久しぶりの遠出ということで、皆で教会に行ったことがある。
(もちろん、幼児なのでバス移動)
荘厳な扉を抜けて教会へ入ると、中は暗い。
当時の年齢からしてみると、西洋風の聖像は、独特とした気味の悪さを感じさせる佇まいであった。
やがて、一人ひとりがオルガンの前へと誘導される。何やら、白い固まりを渡されて、進んでいくと、それに牧師?が火を灯していくらしい。
この塊は後になって、キャンドル(洋ロウソク)というのだと知った。
それぞれに、火の灯ったキャンドルを中央の燭台に並べ、左右の席に座っていく。
ぼうっ。ゆらゆらと灯明が揺れる。
今までに体験したことの無い不思議な空間であった。普段は騒がしい幼児たちも、幻想的な場の空気に当てられて黙りこくっていた。
蝋が織り成す灯には、不思議な力がある。
そういえば、葬儀においても、和ロウソクを用いることが殆どであるし、神社でも、棚段に和ロウソクを並べて飾ることがままある。
なぜ、これほどまでにロウソクは、スピリチュアルな意味合いとともに、宗教的儀式に使われるのだろうか。
一重に、火への信仰があるだろう。
古来から、火は邪を払い、迷うものの道標となると言われてきた。
未だに、ロウソクが、その効力を発揮しているというのも頷ける。
でも、それならば、ロウソクである必要は無い。火を起こしたいならライターでも、バーナーでも良い。
だからこそロウソクの真骨頂は、「身を削り、人を照らす」というその献身性にあるのではないだろうか。
……と思ったけれど、献身性がスピリチュアル性を産むのなら。
備えられた大勢の蚊取り線香に、感謝のお祈りを
捧げたっていいのかもしれないー
11/19/2024, 1:20:35 PM