sairo

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ざあざあと降る雨の下。彼と手を繋いで、傘を差して歩いて行く。
傘はひとつ。大きな白い傘の下で肩を寄せ合い歩くのは、嬉しいけれどもとても恥ずかしい。
傘から出た肩が雨に濡れる。その冷たさが、高鳴る鼓動と熱を持ち出す体には心地好い。

「肩、濡れてるよ。もっとこっちに寄って」
「だ、大丈夫……」

心配そうな彼に声をかけられるが、視線を地面に落としたまま首を振る。
これ以上彼に近づける訳がない。近づいてしまったら、心臓がさらに暴れ出して、きっと死んでしまう。
そう思うのに、彼はわたしの気持ちなど少しも気づいてはくれない。不満げに眉を寄せて、繋いでいた手を解いた。
それを寂しいと思う間もなく。

「駄目。実礼《みのり》が風邪を引いたら嫌だ」
「ひゃぁっ!?」

肩を引き寄せられて、彼の胸に抱きつくくらいに近づいてしまった。
立ち止まる。歩く事なんて出来るはずがない。
彼の胸に当たる耳から、少し速い鼓動の音が聞こえる。狐の姿の時の彼が、草原を走り回るような軽やかな速度。意識しているのがわたしだけじゃないと知って安心するけれど、それでも落ち着かない。

「実礼。歩けそう?」

耳元で囁かれた問いに、必死で首を振った。こんなに近いのに、歩けるはずなんてない。それを分かっているはずなのに、彼は笑うだけで離してはくれそうにない。

「じゃあ、お姫様だっこで運んであげようか?」
「やっ、山吹《やまぶき》くんっ!?」

本気ではないはず。そうは思っても、驚きで顔を上げて彼を見た。
楽しそうな、意地の悪い笑い方。けれどその頬は少しだけ赤い。
意識してくれている。そう思ったら、益々動けなくなってしまった。

「実礼」

柔らかな声音で名前を呼ばれて、鼓動が跳ねる。
名前を呼ばれる事はまだ慣れない。きっとこれからも慣れる事はないのかもしれない。
息が出来ないくらいの幸せ。じわりと視界が滲んで、彼の服を濡らしていく。

「泣き虫さん」
「ばか」

優しく背中を撫でられながら揶揄われて、涙で滲む彼を睨み付けた。

「そんな顔しても可愛いだけだよ」

ふんわりとした微笑み。大人がするような笑顔。
時々それが少しだけ寂しくなる。彼はわたしのためにたくさん努力して一人前の大人な狐になっていく。けれどわたしはずっとわたしのままだ。
学校で、友人や先生とのやりとりで学ぶ事だけでは、大人になれる気がしない。形がない焦りを抱えてぐるぐる回っている間に、彼は先に進んでいつしか置いていかれてしまいそうだ。

「実礼」

彼が名前を呼ぶ。
背中を撫でていた手が流れる涙を拭って、そして。

ふと、彼の動きが止まった。
空気が変わる。張り詰めた痛いくらいに鋭い空気。

「山吹くん?」
「しっ。少し静かに。いいって言うまで、声を出しちゃ駄目だからね」

そう言って険しい顔をした彼が、わたしの後ろに視線を向けた。ぞわりと空気が揺れた気がする。
後ろに何かいるんだろうか。そう思って振り返ろうとすれば、その前に彼の胸に頭を押しつけられる。
思わず悲鳴を上げそうになって、慌てて口を押さえた。声を出してはいけない。きっと出してしまった瞬間に、よくない事が起きるのだろう。
口を押さえて目を閉じる。彼の鼓動が強く、速い。微かに震える体が、何か怖ろしいものが近づいている事を示していた。

――……たい。

声が聞こえた。か細く、けれど淡々とした女の人の声。

――かえり、たい。

後ろから聞こえる声が、ゆっくりと近づいてくる。小さな声なのに、雨の音に掻き消されない不思議な声だ。

――かえりたい。かえして。

声はどこへ帰りたいのだろう。強くなる彼の腕の中で、ぼんやりと考える。
帰して、だろうか。それとも返してなのか。変わらず淡々とした声からは、どちらなのかは分からない。

「帰れないなら、せめて還して」

耳元で、すぐ側で声がした。誰かの吐息が、耳にかかる。
驚き跳ねる体を押さえて、彼に包まれるように抱きしめられる。
漏れ出そうになる悲鳴を必死に押さえる。強く目を瞑り、誰かが離れてくれるのを待ち続ける。
どれくらいそうしていただろう。長いようで、短いような時間。耳元でかえしてと囁く声が聞こえなくなるまでの、怖ろしい時間。

「かえりたい。あぁ、いやだ。もう」

熱を持った吐息が離れていく。
連れ戻されていく。何故かそう思った。


「もう大丈夫。大丈夫だからね」

声が完全に聞こえなくなって、ようやく彼の腕の中から解放された。
口から手を離し、自分の肩を抱く。かたかたと震えが込み上げて、さっきまでとは違う感情で涙が溢れた出した。
彼の胸に顔を押し当て、声を殺して泣く。怖くて、悲しくて、どうしたら良いのかが分からない。

「実礼」

名前を呼ばれて、背中を撫でられる。悲しそうな、泣きそうなその声に、泣きながらも顔を上げて彼を見た。

「怖かったね。ごめんね、ちゃんと守れなくて」

眉を下げた、泣きそうな顔。髪の間から飛び出した黄金色の耳も力なく垂れている。

「雨は境界を曖昧にさせるから、もっと気をつけるべきだったのに。本当にごめん」

彼の目に溜まっていく涙。手を伸ばして、零れ落ちる前に涙を拭う。

「ううん。守ってくれて、ありがとう」

また涙が溢れる前に、無理矢理笑ってみせる。まだ体は震えているけれど、怖いのも悲しいのも大分薄らいできている。お礼を言えば、雨に濡れてしっとりしたしっぽが、甘えるように腰に絡みついた。

「あれは、何だったの?ずっとかえりたいって言ってた」

問いかければ、彼の眉が寄る。視線をわたしの後ろに向けながら、心底嫌そうに口を開いた。

「愛される事から逃げ出した、誰か」
「愛?」
「ボク、ああいうのはやだな」

彼の涙を拭う手を取られて繋がれる。首を傾げれば、繋いだ手を見ながら、だってと彼は言葉を続けた。

「実礼が泣くのは嫌だ。確かにたくさんあげたいなとは思うけど、閉じ込めてしまうくらいの大きな愛は、なんか違う。これくらいの、手を繋ぐ程度の小さい愛をいっぱいあげる方が、よっぽどいい」

そう言われて彼と繋いだ手を見つめた。
小さな愛。小さな幸せ。
よく分からないけれど、わたしにはこの繋いだ手に収まるほどでいい。
それ以上だと、きっと幸せ過ぎて苦しくなってしまうから。

「うん。わたしもこれくらいでいい。わたしもこれくらいを、山吹くんにいっぱいあげるからね」

繋いだ手を揺らして笑う。
へにゃり、と力なく笑い返す彼を見ていたら、ふと悪戯を思いついてしまった。

「ねえ」

繋いだ手を引く。
何と身を屈めた彼に、耳打ちするように顔を寄せて。

「――っ!?み、実礼っ!」

傘が音もなく地面に落ちていく。
頬を押さえて真っ赤になる彼に、悪戯が成功したと笑顔を向けて。

「そろそろ帰ろっか」

そう言って空を見上げる。
いつの間にか、雨は上がっていたようだ。



20250625 『小さな愛』

6/26/2025, 9:43:24 AM