「知ってる? 満月のキレイな夜に海辺に行くと、一晩だけ月の世界に行けるっていう話」
下校中、高校一年のときに知り合った近所に住むちょっと変わった女子は楽しそうにこちらを覗き込んできた。
「満月なのはね、月の光が一番強いから。ほら、海に伸びる光が橋みたいに見えるでしょ?」
ネットでそういう画像を見たことがあるかも、と記憶をたどりつつ、首を振る。
「……オレは聞いたことないけど。どっかにそういうおとぎ話でも載ってたの?」
「ううん、私が考えた話だからないよ」
ほら、やっぱり変わってる。まあ、そういうところが飽きないからわりと気に入っているんだけど。
「でも、本当にありそうじゃない? 結構ロマンチックだし、『普通じゃ絶対ありえない!』っていう話が多いじゃん」
「まあ、言われてみれば。じゃあ月に行けたらなにかおもてなししてもらえるのか? 浦島太郎みたいにさ」
オレは単純だから、普段体験できない非日常感をこれでもかと出すために、月に住んでいるといううさぎを出して「これはこれは何百年ぶりのお客様!」なんて日本語を喋りながらめちゃくちゃ歓迎ムードで迎えてくれる、なんて展開から始めるだろう。
「私は……『地上界がいやで、逃げてきたのね? 人がそう強く願うとき、あの月の橋は現れるのです』なんてちょっとこわーい感じにするかな」
彼女は笑っていたが、どこか違和感を覚えた。
「怖いって、逃げた先が怖いのか? 月に行けるってロマンチックだとか言っといて」
「月に行くこと自体はそうでしょ? そうしたい理由が意外とリアルだってだけ。ほら、グリム童話も本当は怖い! ってあるし」
確かに聞いたことはあるが、微妙に展開が噛み合っていないような……いや、でもよく知っているストーリーのシンデレラだって前半は継母たちに虐げられていたし、そういうものなのかも。
「それだと一晩じゃ足りなそうだけどな。特例で好きなだけいていいですよ、なんて設定はあるのか?」
「あ、そっか。突発で考えたからやっぱ穴あるなぁ。私の設定ならずっとがいいね」
自分が主人公なら、そのほうがありがたい。
「逃げたくなるくらいだから、よっぽどの理由が主人公にはあったんだな」
「うん、そうだね」
「なんだろう、よっぽど誰かにいじめられてたとか、人間関係がうまくいかなすぎてたとか? それか生活が苦しすぎてとか」
ありきたりのもの、それも現実的すぎてつまらない内容ばかりだ。
「そうね……」
言葉を切った彼女の横顔は、今まで見たことのない表情だった。泣きそうにも見えるが、正しいとも言い切れない。少しでも目を離したらいなくなってしまいそうな、不明瞭な不安がただこみ上げる。さっきの違和感がよみがえった。
「たぶん、主人公にしかわからない理由だったんじゃないかな。周りに理解されなかったか、頼れる人すらいなかったか。他の人からしたら『もっと早く言ってくれれば!』って言われるものだったのかもしれないけど、もう、そういうレベルじゃなかったのよ」
「……なんか、リアルだな」
思わずそう呟いた瞬間、明らかに彼女の顔がくもった。
本当に一瞬だったけれど、見逃せるような変化じゃない。
「お前」
「ごめんごめん、変に考え過ぎちゃったね。さ、早く帰ろ。お腹すいた〜」
こっちが気づいていなかっただけで、「主人公」は彼女のことなのかもしれない。
だけどどう聞き出せばいいのか?
今わかるのは、一筋縄でいかないことだけだった。
お題:夜の海
8/16/2023, 2:58:14 AM