朝倉 ねり

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『失われた響き』

私の兄は「天才」だった。
幼年から家にあった舶来品のピアノを弾き始めた兄は、瞬く間にモーツァルトやらショパンやらを弾くようになった。
初めは「男子がそんなものを」と辞めさせようとした父も、たまたま家に招いた外交官に褒められてからは満更でもなかったようで、止めることはなくなった。

「兄様、なぜそんなに指が動くのですか」
私は、ピアノを弾く時だけ指の本数が増えるのではないかと思うくらい多彩な音を奏でる兄に、よく質問したものだ。
「どうしてだろうか。でも、指の腹が鍵盤に吸い付くんだよ。」
優しい兄はそう言って私にピアノを教えてくれたが、私は反対に全く出来なくて早々に諦めてしまった。
「私は兄様みたいには指が動かないわ。」
「瑠璃子もうんと練習したらできるよ」
「ダメよ、私は練習が楽しいと思えないのですもの。兄様は楽しいって思うのでしょ?」
「うん、ピアノは体の一部みたいなんだ。」
そうやって笑った兄は5年後、ピアノの練習のしすぎで指の健を切ってしまい、二度とピアノが弾けなくなった。

「兄様、ピアノ……」
「瑠璃子。その言葉はもう、出さないでくれないか。」
ピアノが弾けなくなって以来、兄は人が変わったように殺伐とした性格になってしまった。
ピアノという単語を出すのもダメ。
私がポンポンと鍵盤を叩くのすらダメだった。
「見たら辛くなる」というのが兄の言い分で、ピアノが置いてあった音楽室には鍵がかけられた。

私はピアノを弾くのは嫌いだ。
でも、兄がピアノを弾くのを見るのは好きだった。
兄がピアノを弾く姿は、私が習っている舞踊より余程優雅で美しかったから。
兄の指先は、象牙の鍵盤を叩く時運命の乙女に触れたように優しかったのだ。

今はもう、見ることができない。
聞くことができない兄のピアノ。

11/29/2025, 12:27:40 PM