たかなめんたい

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『たまには』

「今日の夕飯どうしようかな」
ふとそんなことを独りごちる。
時刻は、いつの間にか午後8時。
冷蔵庫の中には、数日前に買った卵が一つと、使いかけの玉ねぎがあるだけだった。駅前のコンビニで適当な弁当を買って済ませるのが日常のルーティンになりつつあるが、今夜はどうもそんな気分になれない。

「たまには、少し歩いてみるか」

コートを羽織り、冷たい夜気の中へ足を踏み出す。向かったのは、学生時代によく通っていた商店街の路地裏にある、小さな古い定食屋だ。もう何年も足を運んでいなかったが、ふと、あの店の甘辛い肉豆腐の匂いが記憶の底からふわりと蘇ってきたのだ。

街灯に照らされた新しいマンションをいくつか通り過ぎると、記憶の中と同じ、少し色褪せた藍色の暖簾が風に揺れていた。

ガラガラと音を立てて引き戸を開ける。鰹出汁と醤油の香りが、一瞬にして冷えた鼻先を包み込んだ。客の引いた静かな店内で、テレビのバラエティ番組の音だけが小さく響いている。

「いらっしゃい。あら……久しぶりねえ」

厨房の奥から顔を出した女将さんは、すっかり白髪が増えていたものの、私の顔を見るなり花が綻ぶように笑った。もう何年もご無沙汰していたというのに、一目で思い出してくれたのだ。その事実が、冷え切った身体の奥のほうまでじんわりと染み渡っていく。

「ご無沙汰してます。麻婆茄子定食、まだありますか?」
「ええ、あるわよ。外、寒かったでしょう。温かいお茶淹れるから、ゆっくり座って待っててちょうだい」

ストーブのそばの席に腰を下ろす。やがて運ばれてきた、湯気を立てる麻婆茄子と白いご飯。一口頬張ると、舌の記憶と寸分違わない、不器用で優しい味がした。
忙しない日々の中で忘れていた心地よい温度。たまには、こうして記憶の栞を挟んだ場所へ戻ってくる夜があってもいい。

3/5/2026, 4:39:40 PM