かたいなか

Open App

「『戸籍に名前の読み仮名が登録されていない』。これがメリットにはたらく事例を、ひとつ知ってるわ」
俺自身は年が年だから、「優しい子になりますように」のレトロネームだが、毒母の影響で「優しさとか草ァ!」に育ったぜ。某所在住物書きは語る。

「読み方だけが残念な、キラキラネームの変更よ。『夏美』と書いて『ねったいや』って読むとする。そこは『なつみ』だろって思う方多いだろう。
可能なのよ。少なくとも今年までは。読み方の変更。『戸籍には読み仮名が登録されていないから』」
自治体と状況にもよるが、要はこういうことらしい。物書きは一例をひとつ、物語に組み込んだ。

――――――

「『附子山 礼(ぶしやま れい)』。
私の旧姓旧名は、附子山礼だ」

都内某所、某稲荷神社近くの茶葉屋、奥の個室。すなわち上客専用のカフェスペース。
『実は昔と今とで自分の姓名が違う』。
フィクションならではの衝撃事実を、苦しそうに、わずか俯きがちに、告白する者がある。
向かい合って座るのは職場の後輩。驚愕半分心配四半分の目には、心からの配慮がにじみ、ただ優しい。
場違いに部屋に入り込んでいるのは、店主がよく抱え撫でている子狐。いつもと表情の違う常連に、ビタンビタン尻尾を振って、ベロンベロン鼻を舐めようとするも、構ってもらえず。
仕方がないので連れの方、後輩の膝上に陣取り、腹を出したり体を丸めたりしている。

「名前に関しては、漢字の読み仮名変更だ」
店の常連、「附子山」と名乗った方、後輩が今まで「藤森」と認識していた先輩が、種を明かした。
「偽名本名の話じゃない。事実、私の戸籍は今、『藤森 礼』で登録されている。
改姓は説明が長くなるから割愛するが、名前は『礼』の読みを、『れい』から『あき』に変えただけ。
戸籍に読み仮名が書かれていないことを利用した、複数の自治体で認められている手続きだ」
来年からは法改正で、これが難しくなるらしい。
お前も読み仮名を変更したければ今のうち、かもな。
先輩は補足し、懸命に少しの笑顔を見せた。

「どうして、そこまで」
「縁を完全に断ちたいひとがいた。私の名字は珍しいから、都内で暮らしていては、すぐ足がつく。名字も名前も、スマホも番号もすべて変えて、暮らしてたアパートも引き払って。住んでいた区を離れた」
「そんなに会いたくなかったの。先輩のこと、鍵も掛けてない別垢でボロクソにディスってたっていう」
「それが、さっき会ったあのひとだ。『加元(かもと)』さん。下の名前はもう、忘れてしまった」

悔しいな。もう少し逃げられると思っていたのに。
小さなため息を吐く先輩につられて、視線を下げ、うつむいた後輩。
膝の上では子狐が、いつの間にか小さな横長看板を前足で支え持ち、そこには「参考過去作:7月18日か6月3日か5月30日投稿分」と書かれている。
なにそれ。後輩の目は一瞬点になった。

「どうするの。これから」
「分からない。ただ、……残念だとは、思う。
親友の宇曽野もこの茶葉屋も、仕事も、多分お前も。ここには、『附子山』の毒や傷は何もない。『藤森』の花と宝物だけが、詰まっているから」
「それって、また区を離れて、」
「……」

分からない。
小さく首を振り、口を閉ざしてしまった先輩を、知ってか、知らずか。
後輩の膝上の子狐が、横長看板をくるり裏返す。
不穏にも板には「そんな『藤森』に来月末、多分更なる事件が!?引き留められるか、後輩ちゃん!」と書かれており、再度後輩の目は点になった。

7/20/2023, 10:00:13 AM