冬になったら
碧色の五月雨が少し冷たかった去年の5月
近頃、痩せて小さくなった貴女からの電話
鬼の霍乱と笑ったのも束の間、貴女は入院してしまいました、苦しそうな素振りも痛そうな素振りも見せない貴女は、ただ小さくなって私の心に一粒の不安の種を蒔いた、、精密検査の結果は、胃癌ステージIVもう血液にも癌細胞は飛んでいた、子供たち特に夫は医師のこの言葉が信じられず、セカンド・オピニオンに「白い巨塔」の大学病院に、癌センターを巡った、その間にも季節は速足で過ぎ、砂時計の砂は落ち続ける、気丈夫で少々短気で病気ひとつしない貴女が私の前でどんどん小さくなって行きました。足の速い貴女が、何時もよりも速足でスタスタスタと駅まで続く坂の細い道を歩いていた日を想出します、「ちょっとは歩かなきゃ駄目よ!」よく通る声で私や夫を叱咤していたのはつい昨日のことです、貴女が手の施しようのない状態だと告知を受けた夏のはじめ、その細い坂道を初夏の雨にうたれ、言葉さがしながら私たちは歩いた。
余命宣告、「長くて3ヶ月」落胆は私たちの方が大きかった、あんなに気丈夫で健康だった貴女が居なくなるなんて、私には想像出来なかった、3ヶ月って、、お義母さんには秋も冬も無いってこと?キツネに抓まれたようだった。
医者は嘘をつかなかった、ついてくれよと思ったが、ついてくれなかった、貴女の砂時計は勢いを増して砂を落とし、みるみる貴女は小さく小さくなり、私がおんぶできるほどになりました。それでも貴女は痛いとも苦しいとも言わずに、ただ夫が神頼みで日頃不信心なくせに、癌の病封じデンボ(腫れ物)の神さんに御参りし御札や御水を戴き、初夏の雨のにうたれながら坂道を登って来るのを目を細めて待つのでした。
貴女は、何時も強くてそんな状態でも、遺して行く夫(義父)のことを心配し、何時もと変わらずに、あれやこれやと私に指示し、何時もと変わらずに毒を吐き、嫌味を言い、嫁の小言を吐きました。夫には、「兄ちゃん、じーちゃん(義父)が直してくれやんから庭の花に水やりするホース直して」と何時になく甘え、夫はいそいそと庭の水やりホースを直して、母親に初めてくらいに褒められたように喜ぶ貴女を見て喜んでいました。貴女が、春に植えたピーマンとトマトの実が小さい実をつけ始めていました。
貴女は、本当は大好きだったお兄ちゃん(夫)が直した水やりのホースで何度水やりをしたでしょう、、夏の光の中で貴女は倒れそのまま病院に運ばれました、義父はただ黙って義母を見送っていました。
本当に、本当に、最後まで、せっかちな貴女は律儀に先生の言葉を守り、5月の告知からキッチリ3ヶ月8月の半ばに永眠しました、嫁いでから30年以上、嫁姑の仁義なき戦いは幕を降ろしました、はっきり言ってキツイ義母でした
けれど、実母より長く「おかあさん」と呼んだ人でした。義母が私に遺した言葉は「じぃちゃん(義父)頼みます」始めて貴女にお願いされました、しかも丁寧に「…頼みます」私は、何故だか、急に寂しくなって「いやだ、おかあさん、らしくない言葉つかわんといてよ」って笑いながら泣きました。
秋の風が吹いて、紅い彼岸花が
貴女からの 便りを風にのせているようでした
あれから、急に年老いた義父でした。
落ち葉つもる道は 夏の想い出道、「もう少し、おとうさんをあの人(夫)の側に置いておいてあげてよ」私は病院の帰り道あの細い坂道を登りながら姑に話かけました。
それから、冬が来て年が明け春風が吹きまた、5月の雨が降る頃、お母さんがお父さんを迎えに来ました。お母さんよりも早くに胃癌宣告を受けてお母さんより先に逝くはずだったお父さんなんだか安心したように妻の一周忌目前にお母さんを追いかけて逝きました、三途の川の渡し場で待ち合わせでもしていたのでしょうか、
幸せそうなお父さんの最後の寝顔をお母さんの一周忌の前に私たちは見送りました。
二人共に生前の性格通りせっかちで、そして常に子供思いでした、いっぺんに終わってしまいました、親の看取り。出来ることなら、私もかくありたいと思います。
今年の秋は何時もの秋より長くなりそうな気がして、ガランとした実家を訪れ片付けをして、遠くにあなた達の声を聴き、冬が来る前にも一度あなた達に巡り会いたいと思っています。
冬になったら
夢でもし会えたら
庭の花壇は、私が受け継ぎましたと伝えたい。
冬になったら
夢でもし会えたら
来年の春は、何の種を蒔きますかと尋ねたい。
冬になったら…。
令和6年11月17日
心幸
11/17/2024, 11:32:21 AM