蓼 つづみ

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一見、学校は
学業だけに専念させる場所のような顔をしている。
その一方で、「友達は大切だ」と、いかにも正当そうに言う。

けれど実際には、
クラス替えで関係をぶった切り、
席替えで距離を強制的に組み替え、
その結果、孤立すれば「協調性がない」と評価する。
──矛盾の詰め合わせセットだ。

学校が本当にやらせたいのは、
親密な関係を育てることではなく、
管理しやすい関係に慣れさせることなのだと思う。

・誰とでも当たり障りなく話せる
・深入りしない
・感情を持ち込みすぎない
・配置換えに文句を言わない
これは友達づくりの練習ではない。
「集団の中で、波風を立てずに存在する練習」だ。

そして大人になってから気づく。
広く浅く誰とでもは、安全どころか一番危うい。

境界は曖昧になり、
雑音も毒も一緒に引き受け、
気づかないうちに自分が削られていく。

けれど学校は、そこを教えない。
むしろ逆のことをやらせる。
「選ぶな」
「深くなるな」
「続けるな」

本来、人間関係は
時間をかけ、
相互に選び合い、
簡単には切れない安心感の中で
ようやく育つものなのに。

学校は
「友達を作らせたい」のではなく、
「友達っぽい関係を大量に経験させたい」だけだ。
そこに深さも、安全性も含まれていない。

私は登校拒否児童だったわけでもないし、
それなりにクラスメイトと関われていた側の人間だ。
それでも、学校はずっと大嫌いだった。

先生が嫌いだったのではない。
学校という構造そのものが、奇妙に見えていた。
私は健全だった。

子どもが、
「なぜクラス替えがあるのか」
「なぜ席を自分たちで決めてはいけないのか」
そう意見しても、先生は答えない。

多くの先生は、その仕組みを決めた側ではないからだ。
クラス替えも席替えも、
・学校運営
・学年方針
・教育委員会
・前例
こうした“上から降ってきた設計”を、
先生は実行する立場にいるだけだ。

だから「なぜそうなのか」を本気で説明しようとすると、
自分が納得していない部分や、
制度の矛盾まで言語化することになる。
それは、かなりしんどい。

さらに正直に答えるなら、理由はこうなる。
・人間関係が固定化すると管理しにくい
・仲良しグループが強くなると統制が効きにくい
・孤立やいじめの責任を学校が負わされやすくなる
・トラブル時に配置換えで逃げ道を作りたい
・「全員に平等」という建前を守りたい
……教育的とは言いにくい理由ばかりだ。

では、「管理しやすい関係」を作ろうとすると何が起きるか。
歴史的にも、組織論的にも、結果はほぼ同じだ。

第一に、
支配できない衝動は地下に潜る。
表向きは静かでも、
力関係、序列、嘲笑、排除は見えないところで肥大する。
いじめが「突然起きた事故」のように扱われるのは、
実際には水面下でずっと続いていたからだ。

第二に、
最初から波風を立てる人間は、むしろ自由になる。
「どうせ言っても無駄」「どうせ怒られる」
そう思った人間は、もう失うものがない。
管理から零れ落ちた者は、管理を恐れない。

第三に、
一番圧力を受けるのは
誰とでも当たり障りなく関われる人だ。
空気を読み、
場を壊さず、
中和役を引き受けられる人にだけ、
・我慢
・配慮
・緩衝材
が過剰に押し付けられる。

結果、
「優しさ」や「社交性」は
資源として搾取される。

これは学校に限らない。
軍隊、全体主義国家、大企業、宗教組織──
同じ失敗を何度も繰り返してきた。

表向きの秩序を守るために関係性を均す
→ 強度の差が無視される
→ 弱いところに圧が集中する
→ 内部崩壊が起きる。
歴史が何度も証明しているのに、
学校はそれを
「子どもが未熟だから起きる問題」
として矮小化する。

でも実際は逆だ。
未熟な制度が、成熟した関係を壊している。

これは逆効果だ。
そしてその歪みを最も引き受けさせられているのが、
「誰とでも当たり障りなくできる人」なのだ。

それでも学校は、
「いじめをなくすにはどうすればよいか」を
道徳の授業で“まるで当事者でないかのように”扱う。

問いを構造の外に配置する癖は、
いじめの道徳にも、戦争の授業にも、同じように働いていた。

当時5年生で戦争を授業から知った私は混乱した。
なぜ学校は、
自分たちの構造から切り離した顔で、
子どもにだけ問いを投げるのか。
クラスメイトに聞いてみても誰も不思議には思わない様子だった。
世界は不可解だ。

健全な学校運営って、
関係を壊さない
選択権を渡す
逃げ道を複数用意する
矛盾を隠さない
人間関係を評価しない
これだけで、かなり違う。

ところが現実は逆をやる。
令和になっても、
仕組みを変えようとしない。
試してもいない。
最初から閉ざす。

私は学校の話をしているのではない。
みんなが通ってきた道は、
本当に健全な構造だったのか。

その構造が、
いまの歪んだ社会を作る重大な一因になってはいないのか。

そして大多数が、
それを当たり前だと思って
考えることをやめてしまっていないか。

そのことを、問うている。

みんなの意識が、考えるのをやめてしまった後の
「そういうものだからしょうがない」ではなくて、
この問題を頭に入れつつ、
“今はここまでしか出来ない、
だから仕方ない”になるなら、
まだ救いがあると思うという話なんだよ。

ところが、現実は、皆、案外なにも考えずに、“そういうもんだ”で止まってる。

大人がみんな、限界や矛盾を認識した上で
子供に対して最善を尽くす態度になるといいのにって思うんだよね。
メディアとかもそう。

思考を止めさせずに、現実とも折り合いをつける態度を育むためには、親が「そういうもんだ」で終わらせずに、
まず、「その違和感は正しい可能性がある」と扱うこと。

「子どもに現実を教えること」と「子どもから問いを奪うこと」は、まったく別ものだ。

問いを手放さなければ、ルールの外側に風を通すことができる。

題 ルール

4/24/2026, 10:31:52 AM