142.『現実逃避』『遠くの街へ』『欲望』
『桜の樹の下に死体が埋まってる』って話、知ってるかい?
桜があれほど妖艶な花を咲かせるには理由がある。
それは、木の下に死体が埋まっていて、その養分を吸い上げているからだ。
――っていう与太話だ。
ああ、そうさ。
これは嘘の話。
元ネタは、昔の小説の書き出しなんだ。
ものすごく衝撃的な冒頭だから、このフレーズだけが独り歩きしているけれど、本当に埋まっているわけじゃない。
そもそも、その小説の中でも死体は存在しないんだ。
けれど、そう思わなければ、桜の美しさを理由がつかない、信じられない。
いつも不安に苛まされた男が、死体が埋まっていると思い込むことで、ようやく桜の良さを認めることが出来た。
そういう話なんだ。
これからするのも、そんな話。
『桜の樹の下に死体が埋まってる』。
そう信じたい男の話さ。
――あれは一年前のこと、ちょうど今ぐらいの時期、桜の綺麗な季節。
ある男が、付き合っていた彼女を殺して埋めた。
きっかけは些細な口喧嘩だった。
それが売り言葉に買い言葉で、どんどん激しくなって、殴り合いの喧嘩になったんだ。
頭に血が上った男は、彼女を突き飛ばしたんだけど、打ち所が悪かったのだろう、血が勢いよく噴き出して、彼女は死んでしまった。
男は焦った。
『このままでは殺人で警察に捕まってしまう』と。
自分勝手な考えだけど、まあ人間なんてそんなもんさ。
予想外のことが起きれば、自分の保身のことしか頭になくなる。
さて、男は自身の身の安全のためにその場から離れたかったが、一つだけ、やらなければならないことがあった。
死体を隠すことだ。
『死体の発見が遅れれば、その分逃げ切りやすくなる』。
そう思った男は、彼女の死体を埋めることにしたんだ。
桜の樹の下に……
合理的な判断があったわけじゃない。
だが、男にとって、そこに隠すのが自然の様に思えた。
『桜の樹の下に死体は埋まっている』。
――ならば、彼女の死体が埋まっていても、たいした問題にはならないだろう。
そう思ったんだ。
きっと現実逃避でおかしくなっていたんだろうな。
その時の男は、それが唯一の正解だと信じて疑わなかった。
彼女を埋めた後、男はすぐに電車に乗った。
目的地も決めず、電車を乗り継いで遠くの街へ。
適当なところで降りて、野宿をしたり空き家で寝泊まりして過ごした。
男はいつも怯えていた。
いつ警察がやってくるか、いつもビクビクしながら背後を気にしていた。
二日と同じ場所に留まらず、各地を転々とした。
その道中には風光明媚な景色も、賑やかな繁華街もあった。
だが、そのどれも男の心に安らぎをもたらすことはなかった……
そして翌年の四月、再び桜の季節がやって来た。
男は未だ警察に見つかっていなかった。
では、一年間警察から逃げ切ったことで、男は平穏を手に入れただろうか……
……いや、男はもう限界だった。
あの日から、人を殺した罪悪感に苛まれ、心身ともに衰弱していった。
そして、満開の桜を見て、ようやく決心した。
『もう、楽になろう』と……
――そうです、お巡りさん。
お判りのことだと思いますが、その男と言うのは俺のことなんです。
彼女を殺したショックで日本各地を逃げ回り、耐えきれなくなって自首しました。
どんな罰も受けます。
嘘はつかず、知っていることは全部話します
……ですからお巡りさん、『俺を迎えに来た』と言う彼女を追い払ってください。
彼女が生きているはずがないのです。
だって、本物は俺が殺して、桜の樹の下に埋めたんですから。
たしかに『あれは夢だった』と思いたい気持ちはあります。
ですが、それは俺の卑怯な願望であり、欲望なんです。
絶対に、俺が彼女を殺しました。
そこに嘘はありません。
彼女を突き飛ばした手の感触、周囲に飛び散った血の匂い、土の冷たさ、血の気の失せた彼女の顔、全て鮮明に覚えてます。
だから彼女が生きているはずがないんです。
あそにいるのは化け物だ。
どうか、あのニセモノを追い払ってください。
信じられないなら、あの桜の樹の下を掘り返してください。
そうすればすべてが分かります。
桜の樹の下に死体が埋まっている。
俺が殺した、彼女の死体が。
そう思わなければ、気が狂ってしまいそうだ。
3/8/2026, 11:31:28 AM