傾月

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頭上を光が通り過ぎる。左から右へと光が動き、暗い海をすうっと照らす。光を目で追うがそこには何もいない。暗い海がただ照らされるだけ。
日中はまだ暑いというのに、夜の海辺は思いのほか寒い。薄着のせいか、海風のせいか、はたまた季節外れの寒気のせいか。
ただそれでも、この景色を目に焼き付けたかった。

突然会社から有給休暇を消費するように厳命されたのは先週のこと。何がどうあっても今月中に5日は消費してくれと泣きつかれたので、閑散期で少々暇な今の時期ならと致し方なく休むことにした。
仕事をしていることでようやく人としての形を保っていられる私のような人間にとって、連休ほど困ることはない。それなのに、3連休と土日に挟まれて10日間の大型連休となってしまったのだから、泣きたいのはこっちだと不満を漏らす。
降って湧いた10連休。旅にでも出てみようかと旅行雑誌を購入したものの、いまいちどこもピンとこない。どうしたものかと思案していると、ふと思い出したのが灯台だった。
子どもの頃、父の書斎。所狭しと本が積み上げられていたのに、本棚の1ヶ所だけぽっかりと空いていて、そこにあったのが灯台の模型だった。
これは何かと問うた私に父は「これは今も動いている世界で一番古い灯台だよ」と笑顔で答えた。そのあと続けて色々と説明をしてくれたように思うが、聞き慣れない単語だらけで、幼い私には理解できなかった。ただ、その模型の美しさと父の嬉しそうな顔だけは、今でもはっきりと思い出せた。

良い思い付きのように思えた。旅支度を整え、オンボロ愛車に乗り、そうしてやって来たのが海沿いのこの町だった。
日頃趣味もなく慎ましやかに暮らしてきたおかげで、こういう時の軍資金はある。少し贅沢な宿を取り、宿を拠点としてあちこち行ってみるプランにした。
と言ってもやはり根がインドア派なので、そうアクティブに動ける訳でもなく、1日に1ヶ所訪れるくらいで十二分に満足だった。
1日は有名なお寺を参拝し、1日は専門的な博物館を訪れ、1日は苔むす庭園を散策し、大いに旅気分を味わった。
最終日、ゆっくり支度を済ませ宿を後にした。当初の目的、灯台へ向かう。外観を眺めるだけなので、2〜3ヶ所回ってみるつもりにしていた。
朝、最初の灯台は山の上に建っていた。鬱蒼と生い茂る木々の中に建つ白い灯台。地図上では海に近いのでこういう立地もあるのかと驚いた。昼、2つ目の灯台は堤防の先に建っていた。赤い灯台。湾の入口は右と左で色が違うらしい。夕方、3つ目の灯台は岬の先に建っていた。空と海と灯台。思い描いていた灯台はこれだった。ただ、なにか物足りない気がした。
ここで最後にしようと思い、しばらく海を眺めていた。夕焼け色に空が染まり、宵闇が迫りつつあった。刻一刻と変化していくグラデーション。自然の見せる圧倒的な美しさに見蕩れていると、不意に頭上が明るくなった。灯台が点灯したのだ。
光が遠方まで照らす。左から右へと移動する。光を目で追う。振り返り、灯台を見上げた。ああ、そうだ、灯台の本当の姿はこれだ。暗闇の中、海を照らし船人を導く、これぞまさに灯台の真骨頂ではないか。

あの日、父の書斎で見たあの灯台は、本棚の暗がりの中にいた。光りこそしていなかったが、暗い中でも凛と立つあの姿が、私が求めていた物だったのだ。こんなに当たり前のことに気付かないとは、正に"灯台下暗し"だ。
震えているのは海風の冷たさのせいか、はたまた寒い冗談のせいか。独りくすりと笑いながら、満たされた気持ちで帰路に着いた。


―――灯台の思い出


                    #43【夜の海】

8/16/2023, 9:21:39 AM