街に出向いたある晩のことだ。
民家の匂いに混じって、血腥い臭いが
風に乗ってやってきた。薄暗い裏路地からだ。
辿り着いた先にいたのは、二つの重なる人影。
目を凝らすとそれは、女の首筋に牙を立てる
黒ずくめの男。口元からは血が滴り落ちている。
こちらの気配に気づいたのか、男が顔を上げた。月光を浴びたその顔は整いすぎていて、どこか薄ら寒い。
「覗き見かい?」
吸血鬼だ。ここ最近、妙に縁がある。
「こんな場所でお食事とはな」
「仕方ないだろう。彼女がどうしてもと
頼むものだから」
軽やかに答える吸血鬼。腕の中では娘が頬を赤らめ、蕩けた瞳で彼を見上げていた。
目の前の光景に胸がざわつく。軽率な行いだ。
いつ人が通り過ぎてもおかしくはないのに。
「もしかして嫉妬してるの?」
「馬鹿を言うな」
そっぽを向くと、吸血鬼は楽しげに笑い、
髪をかきあげた。金色の髪が月光に反射して煌めく。
「僕と一緒に遊ばないか? 世間知らずな君に
色々教えてあげよう」
赤く濡れた口元で囁かれる言葉は、妙に艶やかで。
睨み返すと、吸血鬼は肩を竦めた。
「つまらない奴だな。まあいい、
また今度誘ってあげるよ」
そう言い残し、娘を抱えたまま
夜の闇へと溶けていった。
――
教会に戻ると、静けさが迎えてくれた。崩れた石壁の間を風が抜け、月光の降り注ぐ中を埃が漂う。
「ただいま戻りました」
もういない主人へ、小さく呟く。
人間でありながら、人狼の血が流れる自分を
受け入れ、生きる意味を与えてくれた人。
——困っている人がいたら助けてあげなさい。
教会に来る者は皆、神の子なのです。
燈明を灯すとき、指先で芯を摘む仕草。
祈りを唱えるとき、わずかに震える声。
決して強い人ではなかった。だが弱さを抱えたまま、誰よりも優しくあろうとした。
「……ご主人」
瞼を閉じると、黒い祭服に白髪の笑顔が蘇る。
胸の奥が締めつけられた。
――
満月が昇る。
青白い光が屋根を焼き、肺を突き刺す冷気と共に、
熱が全身を駆け巡る。
骨が軋む。皮膚が裂ける。筋肉が膨張する。
血が沸き立ち、耳の奥で世界が轟く。
本能を噛み殺すように、歯を食いしばる。
だが抗えば抗うほど、痛みは増していく。
その時だ。
「やあ、今宵も月が綺麗だね」
黄金の髪と赤い瞳を持つ吸血鬼が、
闇を背負って立っていた。
「……なぜここに」
「君に会いたくて」
一歩ずつ近づく足音。
俺は牙を剥き出しにして、低く唸り声を上げた。
「来るなっ! 今夜は――」
言い切る前に、限界が来た。牙が伸び、視界が赤く
染まる。人でも獣でもない姿に変わり果て、
俺は嗚咽を漏らした。
これが本当の俺。
神の子などではない。ただの化け物。
だが吸血鬼は無言で寄り添い、
毛むくじゃらの体に触れた。
死者のように冷たいはずの指先が、不思議と温かい。
「怖くないのか……?」
「怖い? 今の君は怯えた子犬のようだ。
牙を剥きながら、触れられるのを待っている子犬」
赤い瞳が細められる。その表情の奥には、
確かな熱が宿っていた。
ステンドグラスから射し込む月の光が、
二体の魔物を照らす。吸血鬼と人狼。
本来なら相容れぬはずの存在が、
今この瞬間、静かに寄り添っていた。
――
「僕と一緒に来ないか?」
不意に告げられた誘い。
切実で、まるで祈りのような声色だった。
血のように赤い双眸に射抜かれ、心が揺れる。
けれど。
「……おまえとは、一緒に行けない」
唇を噛みしめて告げると、
吸血鬼はほんの少し顔を曇らせた。
しかしすぐに、余裕ある笑みを取り戻す。
「いいさ。答えは急がなくていい。
どうせ僕らは長生きだからね」
――
礼拝堂に戻り、祭壇の前で跪いた。
「俺は……正しい選択をしたのだろうか」
返事はない。
けれど胸の奥で、別の声が囁く。
本当にそれがお前の望みか。
俺が待ち続けているのは、ご主人の帰りなのか。
それとも——。
ステンドグラス越しに落ちる月光が、
床を青白く照らす。夜は果てなく長い。
俺の迷いもまた、終わらない。
お題「僕と一緒に」
(※悪役令嬢という垢の同タイトルと話が繋がってます)
9/24/2025, 9:00:38 AM