すゞめ

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『時を止めて』

 少し遅めに家を出て、少し遅めのランチを楽しんだ。
 店で長居をしすぎたせいか、既に日は傾き始めている。

 西日が彼女の横顔を差した。
 うっすらとオレンジ色に光る温かい膜を、青銀の柔らかな髪の毛は受け入れる。
 スローモーションのような焦ったい視線よりも先に、長い睫毛が俺を捉えて小さく震えた。
 黄金色の光を乗せた瑠璃色の瞳で、彼女は柔らかな声音で俺の名前を呼ぶ。

 きれいだな。

 神秘的な美しさに見惚れている一瞬で、冷えた秋風が雲を運び、雲が彼女の姿を影で覆った。

 叶うことなら時を止めていたい。

 当然ながらそんな特殊能力は持ち合わせていないし、そもそも彼女の美しさは流動的だ。
 彼女はどの瞬間を切り取っても輝かしい。
 シャッターに収められなかった溜飲を、俺は苦し紛れに下げた。

「ねえ。聞いてる?」
「聞いてますよ。最後にハンカチが欲しいんでしょう?」

 ブスッとむくれる彼女に首を傾げる。

「……違う」

 あれ?
 おかしい。

 いくら見惚れていたとしても、彼女の要求を聞き逃すわけがないと思っていたのに。
 日に日に魅力が増している彼女だ。
 魅了スキルが爆発して攻撃力が上がってしまっているのかもしれない。
 耐性がつくどころか拗れていくのだ。
 できるかどうかはさておき、適宜修正が必要かもしれない。

「ハンカチを選んでほしいって言ったの。ちゃんと聞いて」

 俺が普段から、アレもコレもと押しつけているせいだろうか。
 今日は結婚記念日こと、彼女の誕生日だというのに。
 彼女が希望するプレゼントは毎年、ハンカチのみだった。
 タオルハンカチや少量のコロンを一緒に添えたりと、多少の変化はつけている。
 とはいえ、ハンカチを贈ることは、すっかりルーティンと化していた。

「毎年のことなんで、ちゃんとわかっていますよ」

 細かい言葉尻を突かれて、つい大人げなく言い返してしまった。
 彼女が拗ねていじけてしまう前に、慌てて己の失言に平謝りをする。

「……っと、すみません。今のは失言がすぎました」
「わかってくれてるなら、いい」

 案の定、彼女は切なげに眉毛と肩を下げた。

 毎年、彼女は自分の誕生日に俺にハンカチを選ばせる。
 理由はわからないが、その行為に特別な意味を持たせていることは明らかだった。

 事前にハンカチを用意することは許してくれない。
 彼女の誕生日当日。
 互いの都合が悪いときは直近の休みをふたりで合わせて、わざわざ店頭に出向いて選んでいた。
 洗濯を苦手とする彼女が、贈ったハンカチを丁寧に手入れをしながら1年間使い続けている。

 そのいじらしい姿からも、俺にハンカチを選ばせるという行為そのものが特別であることはわかりきっていた。
 悪い気はしないから、今のところ詳しく問い詰める気もない。

 しかし、物足りないのだ。
 彼女の尊い命がこの世に生誕した奇跡的な日だというのに、貢ぎ足りない。

 いっそのこと、30年くらいローンを組んで家でも贈ってやりたい気分だった。

「やめてね?」
「まだなにも言っていませんが?」

 我ながら妙案だと思っていたが、彼女が怖い顔で睨みつけてくる。

「今、ろくでもないもん押しつけようと画策したろ?」
「失礼な」
「その顔! 絶対ヤバいとこ考えてるときの顔だからな!?」

 家を建てることのどこがろくでもないというのか。
 プンスコとテンションを上げていく彼女を前に、それならばと、俺も代替え案を求めた。

「だったらもうひと声、なにかプレゼントさせてくださいよ」
「ええ? でも、指輪だってもらっちゃったし、十分すぎるくらいだよ?」

 はぁ?
 いつまでそんな生ぬるいことを言っているのだ。

 つきたくもない、ため息が溢れてしまう。

「指輪は俺の推し活資金から捻出しているので、プレゼントとしてカウントされると困ります」
「え?」

 結婚して3年。
 毎年、ペアリングを贈り続けているのは彼女の誕生日を祝うためというよりも、俺のためだ。
 彼女の結婚記念日は、俺のための記念日でもある。

 結婚指輪の上に、今年贈ったばかりの真新しい指輪が、彼女の細い薬指に光っていた。
 その小さな左手を両手で包み込む。

「あなたの誕生日は推しの誕生日でもありますから。この1年、推させてくれた感謝の気持ちと、また1年、推させていただくことができるという尊さを噛みしめるために贈っています」
「……?」

 目を見開いたまま、彼女の思考が止まっている。

「今年も1年、どうぞ俺と仲良く過ごしてくださいね♡」

 首を傾げたままほうけている彼女の耳元に、わざとらしくリップ音を立てた。
 ハッと我にかえった彼女の頬が、赤く染まっていく。

「年始みたいな口上になってんぞ?」
「あなたと出会って以降、俺の年始は今日です」
「うわ、初耳」
「俺、毎年あなたの誕生日前後は年末年始として休みを取ってますよ?」
「………………」

 どうせ世間の年末年始では彼女と一緒に過ごすことは叶わず、ひとりきりで過ごすのだ。
 一年の区切りをつけるのであれば、彼女の誕生日のほうが気持ちとしては都合がいい。

 あぜんとする彼女の手を引いて、ハンカチを選ぶために店に入っていくのだった。

11/6/2025, 6:55:16 AM