ゴロリの鼻

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それだけが。

祖母は、呑みもしないティーカップを見詰めて、そう言葉を口から零した。

簡素な真っ白の陶器。昔から祖母の家に置かれた二組のティーカップとソーサーは良いものらしく、その話を聞いた時は若い頃からシンプルなものを好んでいたのだなぁと、二十代の祖母の背姿が見えた様に感じて嬉しくなったのを覚えている。

生活品では、シンプルで簡素なものを好む祖母だが、自身を着飾るもので言えば派手好きなのは見ればわかるだろう。

ショッキングピンクのワンピースなどを着ても似合ってしまうのは少々羨ましい。挑発的な色使いと上品さを常に維持できるセンスは生まれ持ったものなのか、それに影響されたのであろう母はファッションデザイナーとして忙しそうにしている。

ぼんやりと、机に置かれた一組のティーカップ眺める。昔から、飲まれることなくそこに置かれて香りだけを届けているその紅茶。

一度飲みたいとせがんだこともあるが、母にキツく諌められてからは特に理由も聞かずに、祖母の家の風習というように片付けられたそれは、いつだって香り高く祖母を思い出させてくれる。

……話を、しようかね。

祖母は静かに、そう言った。

かつて、昔から誰にも理解されない世界観を持つ女は、それなりに美人だけれども、センスは最悪で、マトモであれば貰ってやってもいいのに。と、周りの男どもに、親にさえも言われ続けて成人まで育った。

そんなこと、お前たちのために生きている訳でもないのに、そんな物差しで私を図るのはやめてくれ。苦痛だ。不快だ。見たくもない。

そうして傷付き、強く、自身を信じた。自身を信じることでしか強くもなれず、生きることも出来なかった女は、とある人と出逢う。

その人は飾り気のない人だった。それでいて、根っからの自己中心的な人だった。優しそうな風貌をしていて、その実、とんでもなく人に影響されない自我の塊だった。見たこともないバケモノみたいな人だった。

なので、その人は自分の美学があった。他人の物差しとは違う自分だけの物差しを、その人は握って、こちらを計っている。

その目は妙に鏡を見ているような気分になって、やっと、自身と同じく変わり者なのだと女は初めて安心感を得て、そうすると何故かどうしようもなく泣けて来て、自己中の癖して泣かれると放っておけないその優しさに、胸を打たれたような衝撃があった。

初恋、というのだろうか。

当時はそんなことも分からないまま、連れられた喫茶店で一杯の紅茶を奢ってもらった。全く違う物差しだけれども、自我だけで出来た物差し同士で語り合うのは楽しかった。飲むことすら忘れて、ただひたすらに言葉を交わした。

放置されて、微かに水面に繊維が浮く冷めた紅茶は今まで口にしたことがないほど美味しかった。

交際が始まった。そうして、結婚して、子供が出来た。喧嘩も絶えなかったが、傍から見ればそれは喧嘩ではなく討論に見えていたかもしれない。そんな関係が、そんな場所が、そんな家族と呼べる人がいた。女は飛び切りに幸せだった。

若くして、その人は死んだ。
急病で、末期なのが、何も、救ってくれやしない神の証明だった。

しかし、まだ幼いわが子がいて、女は下を向くわけにもいかなかった。自分の世界で自分を慰めるよりも、現実でその人と残した軌跡を育て上げることの方が自分らしくないけれども、自分の本心だった。

その人は機能美こそ生活を任せられると言っていた。女は生活の美学はその人ほど強くなかったので、根負けしてそういった家具が家に残っていた。

その人は肌に近いところにあるものは良いものにするべきだと言った。これは女も同意見だったので、カトラリーは良いものであるし、服や手で頻繁に触れ続けるものは良いものに溢れていた。

その人は重度の紅茶狂いだった。もう、水分を摂取するなら必ず紅茶でなければならない程に紅茶に狂っていた。特にアールグレイを溺愛していた。

家には常にアールグレイの匂いに包まれていた。影響を受けた女は、その人と話す時は紅茶を飲みながらでなければ落ち着かなくなってしまっていて、でもそれが嫌ではなくて。

女は、その人の影を追いたくなると、言葉を交わしたくなると、いつも紅茶を入れた。

その匂い、ただそれだけが。

机に置かれた白いカップは、湯気を出すのをとっくにやめていた。冷めきっていて、水面には微かに繊維が浮いている。

祖母はそのカップを手に取り、微笑んだ。

それだけが。

10/27/2023, 7:09:18 PM