薄墨

Open App

ママの様子が変だ。
先生も、友達も、みんな気づいていないし、気にしてない。
でも僕だけは気づいてる。

ママが変だ。
僕のママが偽物になっちゃったんだ。

僕を怒鳴りつけたり、つねったりしないのだ。
ママが変だ。とても。

試しに昨日、テレビに出ていたオムライスが食べたいって言ってみた。
ママの言う“大人のための”番組…大人たちの間ではバライティ情報番組とか呼ばれているらしい…で紹介されていた、うんと手が掛かるやつ。

いつもの、僕のママなら言うはずだ。
「そんな贅沢言わないの!!ママのいつものご飯が不満だって言うの?!」
そうやって怒鳴って、しばらく目も合わせてくれないし、口を聞いてくれない。
それがいつものママのはずだった。

でも、でも。
昨日のママは、しばらく黙って、それから何度か深く息を吸ってから、優しい声でこう言った。
「美味しそうねえ。でも今日は材料ないし、またいつかね」

ママが変だ。
僕のママじゃない。

僕は、保育園によく遅刻する。
保育園が嫌いなわけじゃない。
でも、朝は眠くて、寒くて、とても外に出られたものじゃない。
朝は、寒い外に出て、保育園に歩いていって先生にご挨拶するよりは、あったかい家でダラダラしたいんだ。

でも、12月になってからは一回も遅刻してない。
ママが変だからだ。
一日中、偽物のママに支配される家にいるよりは、保育園でめんどくさいけど、友達と喧嘩したり、遊んだり、片付けしたり、いつもの先生に会う方がずっといい。

ママが偽物になってから、あんまり家では落ち着けない。

でも。
窓の外を見ると、空が橙に染まっている。
もうすぐお迎えの時間だ。
さよならの時間だ。

お迎えが来ると、先生が呼びに来る。
それで、保育園の教室から出るときに、みんな「さよなら」をいう。
先生に「さよなら」を言ったら、僕たちはもう家に帰る。完全にぷらいべーと、になるんだ。

僕はそれが怖い。
だって今日も、変わってしまった偽物のママと二人きりなんだもん。

先生が教室の外で誰かと話してる。
耳を澄ませる。
…ぼくの、ママの声。

僕は、目を瞑って、心の中で必死に祈る。
日曜日の朝、僕に笑いかけてくれるテレビの中のヒーローに、絵本に出てきたおきつねさまに、いつかおばあちゃんとお参りに行った神社のかみさまに、今ママとお話ししている先生に。

「さよならは言わないで。帰りたくない」

お外ではカラスがガァガァ鳴いている。
ママと先生が声を立てて笑う。
さよならは、言わないで。

空はだんだん暗くなる。
足元に落ちていたミニカーがかちゃん、と鳴った。

12/3/2024, 2:54:55 PM