すゞめ

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 帰宅ラッシュ前、まだ明るい午後4時。
 空いている電車の椅子に俺たちは横並びに座っていた。
 つき合う前は隣り合わせに座ることすら許されなかったというのに……。

 近い近い近い近い近いっ。
 ヤバッ、普通に緊張する。

 俺はピッタリと隣にくっついてくる、彼女の近すぎる距離感に翻弄されていた。

 隙間、全然なくね? 普通に密着してるよな、これ。
 つき合ったら距離感バグるタイプだったっけ!?

 今、彼女がどんな表情をしているのか気になって、横目で盗み見た。

 ああ゛ン?

 俺の心の治安が一気に無法地帯となる。
 船を漕いでいるオッサンが、彼女の肩に脂の乗った汚い額を乗せているのだ。
 彼女は肩口で払いのけて抵抗しているが、今にも暴れ出しそうな顔つきで俺との距離を詰めている。
 俺は彼女に気づかれないように深く呼吸をして決意を固めた。

「すみません。コレつけて俺と座る場所、ずれてもらってもいいですか?」
「え?」

 顔を上げた彼女に、俺はポケットからイヤホンを取り出した。

「あ、ありがとう……。でも、なんでイヤホン……?」
「この間、聞いていた音楽、気に入っていたでしょう? アルバムをダウンロードしたんです」
「え、ウソ? 聞きたい」

 陰りを帯びていた彼女の表情に少し光がさした。
 これで多少は気を紛らわしてくれればいい。

「ええ。なので、どうぞ」
「ありがと……」

 彼女の小さな耳にイヤホンを当てがい、音量を確認して音楽を流し始めた。

「少しだけ音量上げておきますから、お耳が痛くなったら下げてくださいね」
「ん。わかった」

 ホッと表情を和らげて肩の力を抜く彼女に、俺も安堵する。
 俺は携帯電話を彼女に預けて椅子から立ち上がった。
 彼女が場所を移動すると、オッサンも顔を上げる。
 
 やっぱり起きてるじゃねえか。
 クソ野郎。

 俺はすぐ、横にスライドして彼女が作ってくれたスペースにドカッと勢いをつけて座った。
 いつもより足を開いて少しでも彼女とオッサンの距離が開くように幅を取る。

「お気持ちはわかりますよ。あんなにかわいくて魅力的な女の子の肩を借りて微睡むのは至福の極みですから」

 眼鏡を外して、レンズについた細かい埃を丁寧に拭った。

「ですが今しがた、その隣が図体も態度もデカい俺にすり替わったわけなんですけど……」

 頭の位置が低いことをいいことに、俺は無遠慮にオッサンを見下ろす。

「まだ寝たフリを続けますか?」
「……っ!?」

 しっかりと汚れを拭き取った眼鏡をかけ直し、オッサンの面を記憶と眼鏡に焼きつけた。

「……その面、覚えたからな? 次、彼女に寄りかかってみろ。駅員の前まで突き出してやる」
「チッ」

 次の駅までまだしばらくあるが、オッサンは舌打ちをしたあと、椅子から立ち上がって車両を移動していった。

「……ふう」

 あっさり引いてくれて助かった。
 足を閉じて背もたれに体を預ける。

 足を閉じれば握りこぶしひとつ分とちょっとの距離が開いた。
 俺の解釈通りの距離感に肩の力が抜ける。

 緊張から解放されて、今さらバクバクと脈が暴れ始めた。

 いや、違うがっ!?

 俺の前に彼女だ。
 怖くて不快な思いをさせてしまったのだから、きちんと心のケアをしようと慌てて彼女に目を向ける。

「……」
「……」

 彼女はイヤホンを外して俺を真っすぐ見つめていた。

 ……は?
 い、いつから? いつから聞かれていたのだろうか。

「あ、あの……」

 恐る恐る声をかけると、彼女は気まずそうに顔を背ける。
 その反応で、ほとんど最初から聞かれていたことを察して両手で顔面を覆った。

「なに、イヤホン外してくれちゃってるんですか……」
「いやぁ、……これ好きって……思って……」

 握りこぶしひとつ分とちょっとの隙間を、彼女が詰める。

「ごめん。怒ってくれるなんて、意外で……」
「俺だって、いつもあんな危ない橋渡ってるわけじゃないです」

 逆上されたら面倒だし、殴られたらどうしようとか、内心はかなりビビっていた。
 当たりさわりなく過ごしてきたから、トラブルに慣れているわけでもない。
 ほかでもない彼女が困っていたから、物申さずにはいられなかっただけだ。

「ありがと……」
「いえ。すみません、怖い思いをさせてしまいましたね」
「大丈夫。本当に平気だから。ね? それより、これ」

 人前で弱さを見せない人ではあるが、本当に気にしている様子はない。
 俺は彼女の言葉に素直に甘えた。
 ころん、と彼女の手に乗っているイヤホンをつまみ取って耳にはめる。

「……ああ。この曲、きれいですよね」

 俺たちは耳元で流れてくる音楽について会話を弾ませた。
 そうしているうちに、アナウンスが彼女の自宅の最寄駅を知らせる。

「そろそろですね」
「うん」

 彼女の手を取ろうとしたとき、先ほど位置を入れ替えたことに気がついた。

 左手……。

「……行きましょうか」

 すぐ隣にある世界で戦う左手を掴むことができず、空白を握りつぶした。
 電車が止まり、力の入っていた手のひらが弛緩する。
 ヘタレな右手は、彼女の背中に頼りなく触れた。


『空白』

9/14/2025, 7:35:15 AM