『ふたりコンサート』
静かな空間に、ピアノの音が聞こえた。それは、一音だけ。たったそれだけだった。
「葵、準備できてる?」
「ん〜…一応は。」
葵は私の幼なじみだ。いつもは整っている黒髪に寝癖がつき、目元は少し腫れているようだった。
「何だか眠たそうだね。もしかして、緊張であまり寝れなかった?」
「……うん。そうなんだ。」
「そうだよね。コンサートだもんね!たくさん練習してたし、緊張しちゃうよね。ほーら、肩の力抜いて!あ、見て!今日は葵の好きなプリンを買ってきたんだ!一緒に食べよ?」
「うん、ありがとう。」
「はい、スプーン!」
「ありがとう。」
葵のために買ってきたプリンは、朝日に照らされて、キラキラと光っていた。
「ん〜!やっぱりこれ美味しいね!」
「う、うん」
「葵、あとでドレスも着ないとね!髪も整えて、メイクもしてあげる!大丈夫!こういうのは私に任せてくれればいいから!あ、そういえば、パンも買ってきたんだよね!ん〜どれがいいかなぁ――」
「ねぇ、晴香。あの約束覚えてる?」
「……うん。もちろん覚えてるよ。今日のコンサートが終わったら、私は……。私ね、葵に出会えてほんと良かった!葵の手も葵の髪も葵の声も、葵のピアノも。全部、ぜーんぶ、大好きなんだ!」
私は少し照れながらそう言った。
「晴香。私も……。」
葵は今にも泣き出しそうだった。私はその顔に手を伸ばそうとした。けれど、
「晴香、もう、行かないとね。」
そう言って、葵は悲しそうな顔で席を立った。
コンサート会場はとても小さく、大きなグランドピアノがより一層それを際立てた。葵の演奏するところがよく見えそうな真ん中の席に座り、彼女が出てくるのを静かに待った。
もうとっくにコンサートは始まっているのに、葵はなかなか出てこなかった。10分ほど経った頃、黒いドレスを身にまとった彼女が、少し俯きながらゆっくりと登場した。ピアノの前まで歩みを進めた後、しばらくの間、私の顔をじっと見つめる彼女に私は、大きく頷きながら微笑んだ。
彼女は深いお辞儀をして、何も言わずにピアノの前に座った。ピアノに手を置き、じっと手元を見つめる彼女を私は、また静かに待った。突然、ピアノの音が響いた。それは、たった一音だけだった。
低いその音が静かに消えた時、彼女は声を上げて泣き出した。大粒の涙を流す彼女をじっと見つめた。葵なら大丈夫、必ず自分の力で最後まで演奏することが出来る。そう信じて、震える肩に手を伸ばしたい気持ちを堪えていた。
葵はしばらく泣いたあと、今度は力強い顔で前を向き鍵盤に手を置いた。いよいよ始まる。呼吸をするのも忘れて彼女を見つめた。
低いピアノの音がゆっくりと紡がれる。どこか悲しいような、重苦しい音だった。私が葵のコンサート来たのは初めてだ。身体の弱い私は、ほとんどの時間、病院を出ることが出来なかった。次第にピアノの音が大きくなる。美しく、何かを語り掛けているかような、そんな音色だった。
オレンジ色の光が葵とピアノを照らす。時が止まったのかと思うほど、穏やかな優しい空気が流れた。
葵と出会った日のことや、葵が私に美味しいからとよくプリンを買ってきてくれたことを思い出した。彼女はもう泣かなかった。涙を堪えながらも、一生懸命に弾く姿は、とても力強かった。
また、低い音に戻った。その音が、もうすぐ演奏が終わることを伝えていた。徐々に大きく煌びやかな音に変わり、その音は、彼女の美しい未来を想像させると同時に、私たちの別れも知らせていた。
音が小さくなり、約8分間にも及ぶ演奏は終わりを告げる。葵が立ち上がり私の方を向いた。葵はにこやかな顔をしていた。深いお辞儀をして、舞台袖に歩みを進める。わたしは
「葵!!」
そう叫んだ。けれどその声は、葵には届かなかった。
これで最後なのだと寂しかったけれど、最後に、彼女の演奏を聴くことが出来て本当に嬉しかった。
「葵、ありがとう。大好きだよ―――」
会場にはもう誰も居なかった。大きなグランドピアノが静かに佇み、誰かに弾かれるのを今か今かと待っていた。
𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄
テーマ『君の奏でる音楽』
8/13/2024, 12:16:49 PM