意識を失った。頭でキーボードをしたたかにタップする羽目になり、少しだけ覚醒する。
深夜。誰もいないオフィス。日頃は整頓を徹底している資料が無秩序に散らばり、万策尽きたラップトップは無気力なブルーライトを振り撒いていた。
「無理だ・・・・・・」
僕は枯れ切った声をこぼした。疲れ果て、心も折れていた。
ミツボシは日本が誇る世界最大の企業グループだ。その歴史は古く、創業は明治期まで遡る。重工業を核に多業種を展開し、近年ではIT分野における躍進が特に目覚ましく、その影響力は米国の主要IT企業群のそれを上回る。
大学を卒業して2年。僕はそのミツボシで働いていた。
子供の頃から憧れ、夢見ていたそこは、僕の描いた理想そのものだった。古い巨大企業にありがちな硬直性とは無縁で、各分野のトップランナーながら守りに入る気配すらない。
革新的で、アイディアに溢れ、若くても実力さえあればチャンスが与えられた。もちろん相応のスキルと成功が求められたが、必要な素養は持ち合わせていると自負していたし、情熱もあった。
そのプロジェクトは第三国を巻き込む大掛かりなもので、マネージャーに抜擢された僕は、人生の絶頂を味わった。
僕という人間の全てをそれに捧げた。誰よりも働き、立ち回り、あらゆる手段を講じて成功へと導いた。どこで歯車が噛み合わなくなったのか、今でも分からない。順調だったはずのタスクが滞り、気がついた時にはチームは瓦解していた。僕は一人でプロジェクトを必死に支え、形振り構わず足掻き、そして力尽きようとしていた。
間も無く日付も変わる。コーヒーでも飲んで、少しは気持ちを切り替えよう。
僕は震える手でカップを掴み、覚束ない足取りで立ち上がった。オフィス備え付けのコーヒーメーカーで適当なボタンを押し込み、どうにかカップに目当ての黒い液体を注ぎ込む。
その時、スマートウォッチが電子音で日付の変更を告げた。反射的にディスプレイに目を落とし、僕は眉を顰めた。
24:00の表示。違和感が膨らむ。日付が変わったのだから、0:00となるべきだ。OSの不具合か。スマートウォッチは24時と30秒をカウントしていた。
苛立ちながらオフィスの壁掛時計に目を投じ、異変に気付く。文字盤がおかしい。頂点に見慣れぬ「13」のアラビア数字が刻まれ、僕が知る定位置より幾分左下の「12」を僅かに過ぎた短針が、頂点に向けた身じろぎを始めたところだった。
「初めて見る顔だな」
カップを取り落としそうになった。明らかに僕に向けられた声に振り返ると、そこはもう見知ったオフィスではなかった。
時代がかった赤絨毯が敷かれ、飴色になるまで使い込まれたアンティーク調の大きな卓が、古びた電球に照らし出されている。そこに、10人を数える程度の奇妙な若者たちが、リラックスした様子で集まっていた。
奇妙といったのは、僕と同じくらいの年代に見える彼らが、それぞれ全く異なる風体をしていたからだ。
最も顕著なのは服装で、書生風の和装やスリーピースに蝶ネクタイなどが目を引く。スーツ姿であってもデザインや生地がひどく古めかしく、僕の知るそれとは異なる仕様が多く見られた。
それだけではない。髪型が、肌の質感が、仕草が、佇まいが、普段オフィスですれ違う同期たちとは一線を画し、ただの仮装などではないことを確信させた。
「驚くのは分かるが、君が今夜の発案者だ。早速取り掛かろうじゃないか。さあ、説明を始めてくれ」
先ほども僕に声を掛けたと思しき和装の青年が言った。他の若者たちも同調し、僕に注意が向けられる。
足が竦んた。それなりの場数は踏んだつもりだったが、重役や他社の取締役たちにプレゼンした時以上の圧を感じた。
「大丈夫ですよ」
一人の女性が僕の肩に触れ、微笑んで言った。
「あの人達は、皆ミツボシの人間。ほら、よく見たら、覚えのある顔がちらほらあるでしょ」
二人で、和装の若者を見る。忘れもしない。子供の頃に伝記で、就活の時の企業研究で、入社後の研修で、何度も目にした。あれは、若かりし日のミツボシグループの創・・・・・・。
「おっと、言わないでくださいよ。そういう作法だから。ここは、古い古いミツボシ由来のどこかの書斎。ミツボシで仕事をしていると、稀に明日が来ずに今日が続くことがある。そんな時は、こうやってミツボシの誰かに繋がるの。呼ばれるのは、ミツボシな大きな革新をもたらし得る人だけ。過去に、あるいは未来で・・・・・・」
そこで女性は僕に顔を寄せ、小さな声で囁いた。
「はじめまして。私はあなたを知っています。ずっと尊敬していたの。お会いできて嬉しい」
笑った。それから彼女はいつの間にか持っていたPCを僕に渡し、資料を卓に並べる。
「さ、せっかくこれだけの人が揃っているのだから、あなたの課題を共有してください。できることがないか、皆で考えましょう」
背を押されるようにして、僕はPCを開き、資料を配った。行き詰まったプロジェクトについて説明する。
闊達な質疑応答。そこかしこでディスカッションが起こり、瞬く間にまとめられた意見がフィードバックされる。和装の青年が思いがけないブラインドタッチでラップトップを操り、分析された数値を基に斬新な見解を述べれば、女性は絶妙な司会進行で議論を温め続けた。
そういえば、しばらく誰かと協力して仕事をすることなどなかった。矢継ぎ早に寄せられる意見や質問に応じながら、僕はふとそう思った。
気がつくと、僕は人気のないオフィスで、冷えたコーヒーを手に立っていた。時計を見ると、午前1時を回っていた。
僕は手早く荷物を片付け、家に帰り、シャワーを浴びて3日ぶりに眠った。
次に出社した僕がしたのは、チームのメンバーに頭を下げて、プロジェクトを畳むことだった。意外にも、メンバーは僕を責めることなく、後始末もスムーズに進んだ。
上役にはこっぴどく締め上げられたが、現地でプロジェクトの枠組みを別の業態に流用し、一定の成果を挙げてみせることで、何とかチームメンバーの評価を下げることだけは防ぐことができた。
僕はまた出直しとなったが、それはいい。ただ、またいつか、あの真夜中の古い書斎まで届くような仕事をしてみたい。そう思うのだった。
(ミッドナイト)
1/27/2024, 4:14:11 AM