H₂O

Open App

ミッドナイト


それに出会ったのは、疲れ果てて今にも倒れてしまいそうなときだった。何連勤したのかすら覚えていないくらいに連勤が続き、自宅と会社を行き来するだけで、ろくに何も食べていないこの体はもはや気力だけで動いていた。
街は夜なのにネオンの光がびかびか、と輝いて疲れた目には痛い。そこからそらすように、視線を路地裏へと向けた。
そこには路地裏には似合わないほどに洒落た看板があった。木製の看板がわずかな風に揺れて、誘われているようだった。
『ミッドナイト』そう書かれた看板に自然と体が吸い寄せられるように、動き出す。
こんなことしてる場合じゃない、早く帰って寝ないと。そう思うのに、手は勝手にドアノブを回し開けてしまった。
カランカラン、と低い鐘の音がして、中に入ればそこはなんとも不思議な空間だった。
暖炉がぱちぱち、と音を立て部屋の中を優しく照らす。アンティーク調の家具が異国感を漂わせるが、どこか安心するような、懐かしいような気がして肩の力が抜ける。
いや、でもそれよりも気になるのはさっきからそこら辺を飛んでいる羊みたいな生き物と海月みたいなやつらだ。ふわふわとゆらゆらと縦横無尽に飛び回っている。
疲れすぎて幻覚でも見ているのだろう。そう本気で思えるくらいにはありえないものだったし、疲れていた。
「いらっしゃいませ、ようこそミッドナイトへ」
奥から一人の女性がそう言ってやって来た。人間離れした美貌に見惚れそうになり、その耳が妖精のように尖っているから、やっぱり夢でも見ているのだろう。
「眠れないのですか?」
「へ……?」
「眠れないから、ここへ来たのでしょう?」
「むしろここが夢では?」
「ふふふ、面白いことを言うんですね。夢じゃありませんよ」
そう言われて、なんとなく頬をつねればちゃんと痛かった。別の意味で倒れそうになったのは言うまでもない。
運良く、なのかそのままソファに座り込む形になる。ふかふかのそれは今まで座ったどの椅子よりも柔らかかった。
一匹の羊がふわー、とやって来て膝の上に収まる。クッションのように抱きしめれば、小さくめぇー、と鳴いた。
「眠たいはずなのに、眠れないんです」
気がつけば、そうこぼしていた。ろくに眠れていないのに、いざ寝ようとすると逆に目が冴えて、夜中に何度も目が覚めたりして、満足に眠れていなかった。
ぽつぽつ、とそう話せば、女性は優しく微笑んだ。
「あなたにぴったりな子がいるんです」
そう言って、女性はおいで、と誰かを手招きした。やって来たのは、幼い女の子だった。礼儀正しくお辞儀をして、微笑む顔はどこか大人びている。
少女はランプに手をかざして部屋の明かりをほの暗くした。いつの間にか座っていたソファはベッドへと変わり、あっという間に眠る準備が整えられる。
少女はベッドに横たわり、たしたし、と布団を叩いて同じく横になるように促す。若干おそるおそるといった感じで横になれば、よくできました、と言わんばかりに頭を撫でられた。
頭を撫でられるなんていつ振りだろう。その小さな手があたたかくて、心地よくて。もっと撫でてほしい、と頭を軽く押しつければ、ころころとした笑い声が聞こえてきた。
久々にこぼれたあくびに、誘われる眠気に逆らわないまま眠りについた。

ぱち、と少し目が覚めてしまって少女の方を向けば、ひそひそ話をするように小さな声で言われる。
「もう少し寝な」
「……ねむれない」
そう少し駄々をこねれば、仕方ないなぁ、と笑いながら知らない子守唄を歌ってくれた。
その不思議な音色に乗って、また眠りについた。

次起きたときはもう朝で、久々にものすごく眠れた気がした。
少女と女性にちゃんと寝ること、と注意されながら、その店を出る。
その日からはちゃんと眠るようになったし、眠れるようにもなった。そのおかげか、あの店を見かけることはない。確かにあったはずの路地裏に行ってもそこには何もなく、あれはきっと『そういう』ところなのだろう。

きっとどこかにある添い寝やさん。でもどこにもない。
それはあなたが困ったときに、あなたの元に現れる。

1/26/2023, 2:20:05 PM