「10年後の私から届いた手紙」
拝啓
寒い日が続くこの頃、いかがお過ごしでしょうか。
私は世界の淵で、10年前のあなたのことを思ってこの手紙を書いています。
あなたは働きはじめてからまだ1年も経たないし、あんまり要領も良くない、口下手で地味な子。
しかも朝に親和性がなかったから、午前中に起きるだけで精一杯なのに、早起きまでしなくちゃいけない。
毎日仕事で失敗ばかりしてよく泣いていましたね。
そんな様子を見た家族からは呆れられて、会社にも家にも安心できる居場所がなかった。
毎日毎日、自分がいなくなったって、誰も痛くも痒くもない、悲しまない。そう思っていたのを覚えています。
え?現在(2034年)の話をしてほしい?
勿論、色々お話ししたいことはありますが、全部秘密。
どこで暮らしていて、どんな働き方をして、どんな人に囲まれているのか。
此岸にいるのか、彼岸にいるのか、それすらも秘密。
そうしておかないと、将来の楽しみがなくなってしまうでしょう?だから、10年経ってからのお楽しみにとっておいてください。
あなたは小さい頃から何故だかずっと不安や孤独を抱えていたのに、周囲からは実力に見合わない程の評価や期待をされてきましたね。
そして、それらに応えられなかった時に言われた「嘘つき」という言葉が、心の奥深くまで突き刺さっていまだに抜けないままになっている。
少女の私だって人間なのに、まるで傀儡やアクセサリみたいに、誰かの都合にばかり合わせて、望みもしないのにのっぺらぼうの仮面で歪んだ無表情を隠して。そうやって生きていましたね。
あまりにも人の都合ばかり気にして、全てのものがとても恐ろしく感じていたある日、鏡を見て気づいたでしょう。
あなたの目の奥の、真っ暗闇に。
生き物が放つ生命力が失われたことに。
その時から、あなたは、私は自分を人間だと思えなくなってしまった。
そう、手紙を書いた今から12年くらい前に、私は私でなくなってしまったのです。その事実があまりに辛いから、もう彼岸へと旅立ってしまおうと、もやい結びの練習を何度もしたことを覚えています。絶望と憂鬱を埋める為に沢山買い物をしてお給料をほとんど使ってしまったことも、忘れていません。
でも、今この文章を読んでいるということは、辛いことを沢山乗り越えて生きてきたということです。
周囲からの期待も、蔑みも、自虐も、喜びも。
あなたは全部、乗り越えたんです。
辛いことは十二分にあったけれど、あなたが生きていてくれたおかげで私は色んなものに出会えました。
ショパンの子守歌。ラヴェルの水の戯れ。
グリンカとバラキレフのひばり。
青葉市子さんの腸髪のサーカス。
繊細な刺繍のブラウス。
マダガスカルのカカオで作ったチョコレート。
たくさんのぬいぐるみやお人形たち。
出会いの楽しみを残すために今日のあなたが知っていることしか書かないけれど、これからも沢山美しいものに出会えるんです。
だから、これからも
生きて!
2/15/2024, 2:49:53 PM