旧校舎の音楽室には、魔物が住んでいるらしい。
普段は聞きながすクラスメイトの噂話が、何故かとても気になった。
どんな夢でも望むままに見せてくれる魔物。けれど対価は、その人の一番大切な記憶。
クラスメイトたちは怖いと言いながら笑っていた。たかが夢のために記憶を手放すなんてありえないと、すぐに興味をなくし別の話題へと移っていった。
旧校舎の音楽室には、甘い夢を見せる魔物が住んでいる。
昼休みの終わりのチャイムが鳴り響く中、いつまでもその噂話が頭から離れなかった。
放課後の旧校舎は、外の賑やかさとは正反対に静まり返っていた。
普段から滅多に使われることのない校舎だ。掃除はされていても、どこか埃っぽさを感じてしまう。
三階の音楽室を目指し、ゆっくりと階段を上がっていく。踊り場のくすんだ鏡に自分の姿が映っているのを見て、反射的に顔を背けた。
鏡は嫌いだ。鏡に映る自分の姿は、もっと嫌いだった。
鏡を見ないように視線を落とし、二階へと上がる。しん、と静まり返った廊下を一瞥して、三階へと上がり始める。
「――何?」
微かに、音が聞こえた。立ち止まり耳を澄ませれば、どうやらそれは歌のようだった。
確信が持てないのは、それが聞いたことのない言葉だったからだ。まるで子守歌のように静かな旋律は、耳に馴染んで心地がいい。
気づけばその旋律に惹かれるように足早に階段を上り、奥の音楽室を目指していた。
音楽室の扉を開けた瞬間、音の波に呑まれた錯覚を覚えた。
息を呑み、立ち尽くす。動けないのは、音だけが原因ではない。目の前に広がる光景が、足を竦ませていた。
床に倒れている数名の生徒。皆微笑みながら、深い眠りについているようだった。
明らかに異様な光景に、逃げなければという焦りが生まれる。それなのに体は扉に手をかけたまま動かず、視線だけが忙しなく教室内を彷徨っていた。
その中で、唯一起きている人がいた。ピアノの椅子に腰かけ、白い横笛をくるくると回しながら、楽しそうに歌っている。
不意に、歌が止んだ。
ゆっくりとこちらを見るその目は、血のように赤い。蠱惑的に微笑むその姿は、人というよりも、完成された彫刻のような美しさがあった。
人ではないのかもしれない。赤い目に見入ったまま、ぼんやりと考えた。
「Bist du auch hier, um süße Träume zu träumen?」
歌うような囁きは、やはり聞き覚えのない異国の言葉。戸惑い目を瞬かせると、美しい誰かは苦笑したようだった。
「あぁ、悪い。故郷の言葉は、ここではなじみがないのだったか」
今度は耳に馴染んだ言葉が、鼓膜を揺する。低くもなく、高くもない声音。さっきまであったはずの焦りや恐怖が、声に解かされていってしまう。
「あなたも、甘い夢を見に来たのか?それならそんな所にいないで、ここまでおいで」
促されて、動かなかったはずの体がゆっくりと歩き始めた。床に倒れている生徒たちのことなど気にもならず、ただ手招く方へと向かっていく。
「お代は、甘美な記憶を一欠片。それだけくれれば、どんな夢でも魅せてやろう」
大仰に礼をして腕を広げるその姿は、道化師のようにも見える。白い指先がこちらに伸び、額に触れるのを感じながら、ふと不安が込み上げた。
甘美な記憶。そんなものが自分にあるのだろうか。
自分の記憶に甘さを感じたことはない。モノクロの世界しか思い出せず、それはいつだって温もりを失った虚しさに満ちている。
姉が病で闘っている時も、そして亡くなった後も、ずっとそうだった。
止めた方がいいのだろうか。そう考えていると、目の前の道化師の笑みが崩れた。
首を傾げ目を瞬き、そしてはっきりと眉を顰め指を離す。赤い目に浮かぶ不快の色を見て取って、密かに落胆した。
やはり自分には、甘い夢を見ることなどできるはずがないのだろう。
「搾取され続け、だがその結果は報われない……一番嫌いなタイプの記憶だ。そんなものしかないオマエに、魅せられる夢などありはしない」
吐き捨てて、道化師は立ち上がる。眉を顰めたまま、手にしていた横笛を構えた。
「Geh nach Hause.いい子は家で好きな夢を見ればいい」
夢など見たことはない。
そう言い返そうとして、けれど笛の音が聞こえた途端、何も言葉が出てこなくなった。
意識が微睡んでいく。体が勝手に動き、音楽室を出て行ってしまう。
自分と同じように、倒れていた生徒も起き上がり歩き出す。そのまま階段を下り、旧校舎を出て。
覚えているのは、そこまでだった。
旧校舎の音楽室には、夢を魅せる魔物がいる。
そんな噂話は、数日もすればすっかり忘れられてしまったようで、誰一人話すことはなくなってしまった。
もうどんな噂だったのかも、はっきりと覚えてはいない。そもそも最近は、思い出す余裕もあまりなかった。
「ほら、今回の自信作」
そう言って机に置かれたのは、綺麗にラッピングされた数枚のクッキー。
「あの、さ。悪いんだけど……」
「さっさと食え。甘くて美味いはずだ」
有無を言わさぬ様子に、仕方がないとラッピングを解き、クッキーを一枚とって齧る。
さくり、とした軽さと甘さが口の中に広がり、重苦しい気持ちと混じって何ともいえない気持ちになった。
ここ数日、友人は菓子作りに目覚めたようで、毎日のようにこうして作った菓子を渡してくる。
最初は素直に喜び、次第に貰うばかりなのが申し訳なくなった。そして今は、渡される度にどうやって断ろうかとばかり考えている。
甘いものを食べ慣れていない自分にとって、友人の菓子は少しばかり重いのだ。
「何度も言ってるけどさ、私以外にもあげられそうな子はいるんじゃないの?」
「何度も言ってるが、オマエのために作っているんだ。それを他のやつに与えてどうする」
相変わらず友人は頑なだ。強制的な優しさに、本当に受け取っていいのかと、少し不安になる。
そもそも、自分はどうやって友人と知り合ったのだったか。
「どうした?」
「――え?」
顔を覗き込まれ、考えていたはずのことが途端に掻き消えた。
目を瞬く。思い出そうとしても何一つ思い出せず、眉を寄せ首を振った。
「些事を気にかけるな。オマエはただ、与えられなかった献身の報酬を享受すればいい」
「何?」
何かを言われた気がしたが、友人は笑って首を振る。
その笑い方を、どこかで見た気がした。けれどそれを思い出すより早く目が合って、そうすれば何もかもが朧げになっていく。
「甘さで満たされたオマエの記憶は、さぞかし美味しいのだろうな」
ふふ、と笑う友人の目が、窓から差し込む光を反射して赤く煌めいたように見えた。
20260517 『sweet memories』
5/18/2026, 6:13:22 PM