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お題『もっと知りたい』

夜の部屋は静かで、窓の外の街明かりだけがぼんやりと差し込んでいた。
ソファに並んで座ると、猪野琢真はちらりと隣を見た。
「七海サン」
呼ぶと、七海建人は手にしていた本から顔を上げる。
「どうしました、猪野くん」
落ち着いた声。いつも通りの丁寧な口調。
それなのに、恋人になってからはその一つ一つが妙に甘く聞こえる。
猪野は少し身を寄せた。
「……七海サンのこと、もっと知りたいなって思って」
「私のことを、ですか?」
「うん。仕事の時とか、普段の時の七海さんも好きだけどさ、俺が知らない七海さん、まだいっぱいある気がして」
七海は一瞬だけ目を細め、それから小さく笑った。
「君は十分、私のことを知っていると思いますが」
「全然。実は一番好きな食べ物とか、リラックスできる休日の過ごし方とか、俺と会うより昔のこととか。あと……」
猪野は少し照れながら、七海の手に指を絡める。
「俺のこと、どれくらい好きとか」
「……それは、随分と難しい質問ですね」
七海はそう言いながらも、手を振りほどかない。むしろ指を軽く握り返してくる。
「言葉にするのは得意ではありません」
「でも知りたい」
「困りましたね」
そう言いつつ、七海は少しだけ琢真の方へ体を寄せた。
肩が触れる距離になる。
「では一つ、教えましょう」
低い声でそう言って、七海は琢真の肩に額を預けた。
「君がこうして隣にいると、安心します」
思わぬ言葉に、猪野の心臓が大きく跳ねる。
「それって……」
「つまり、かなり好いているということです」
さらりと言われて、猪野は顔を赤くした。
「……七海サンずるい」
「何がでしょう」
「そういうの、急に言うから」
七海はくすりと笑う。
「君が『もっと知りたい』と言ったのではありませんか」
「それはそうだけど……」
猪野は少しむっとして、七海の肩を抱き寄せた。
「じゃあ今度は俺の番。七海サン」
「はい」
「俺、七海サンのことめちゃくちゃ好き」
耳元で言うと、七海はほんのわずかに息を止めた。
「……ええ、知っています」
「まだ足りない。もっと知ってほしい」
抱きしめる腕に力を込めると、七海は小さくため息をついた。
「本当に、君は——」
そう言いながらも、その声はどこか柔らかい。
「……いくらでも知るつもりですよ。これから先も」
その言葉を聞いた瞬間、猪野は思った。

ああ、きっと一生かけても。
この人のことを、もっと知りたい。

3/12/2026, 2:02:42 PM