「えっ」
えっ。
もう、それに尽きる。
それ以外言葉が出てこない。いや……出てこないというより、頭が動いてないんだな。
白い雪霧が覆い隠しているのは、赤いスカーフがフラフラ風に乗って、舞い上がっていく景色。
ドサッと音がした。何が落ちたのか。
弟の腰か、体か?腕か。それとも頭なのか。
悪い冗談だ。本当に悪い冗談だ。
弟の声はここからじゃ聞こえない。誰が弟をこんな目にあわせたのか、誰が弟の大切なスカーフをどこかへ飛ばしてしまったのかも、ここからじゃわからない。予想はできたが、まだ実際には見ていないから。
もしかしたら、相手はイヌかもしれない。
弟はよくイヌと戯れていた。まあ、そんな優雅なもんじゃないかもな。
戯れというより、ケンカと言った方がずっと的確かもしれない。
だから今だって、飛びかかってきたイヌをアイツは胸で受け止めて、尻もちついただけだろう。
でも、静かすぎるように思う。
もう誰かの、なにかの、うーん。とにかく、気配はどこにもない。
どうしてなんだろう?
もしかしたら、川に落ちてしまったのかもしれない。
そうだ、ここのすぐ傍らには流れの早い川がある。
だから、弟はイヌに胸を押されて、そのまんま川に落ちちゃったのかもな。
アイツは泳げないから、下流の方にどんどん流れてってるかもしれない。
そうきたら、助けなければ。
オレは、ようやく足を動かした。
でも、スリッパにボロボロついてる雪の塊が、ひとつひとつ鉄球のように重い。
早くしなければいけないのに。
早く弟を助けなければいけない。
……早く、弟が死ぬ前に。
白い雪霧の中で、オレはほんとうにのろまに進んでいる。
あー。こんなことなら、弟の言う通り運動しとけばよかったな。
そしたらこんな雪道なんか、すぐ駆け抜けて、弟の落ちてく手をとれたのに。絶対だ。アイツみたいに、頼り甲斐のあるヤツになれたのに。
オレにとってのアイツのように、アイツにもオレを想ってもらえたかもしれないのに。
オレはほんとうにだめだ。
この期に及んで後悔だ。なんてばかなんだろう?
考えろよ、考えろよ、もっと考えろよ、どうすれば早く進める?どうすればこの白くて濃くて自分の手も見えないような霧の中を、走れる?どうやったら弟のように、アイツのように……オレに追いつけないくらい速く走れる……?
オレは足を止めた。
諦めたわけじゃない。
ただ足に、なにかが縋り付いたから止まったのだ。
見下ろす。目立つ赤色がぼんやり見える。振りずさむ牡丹雪がジャマするが、オレにはちゃんとわかった。
アイツの、手に違いない。
「パピルス……、」
すぐそれを掴んだ。
風を掴んだだけだった。拳をつくっただけになる。
オレは意味もわからず、そのまんま手を上げた。
目の前に持ってきて、初めて、その手が掴んでるものの正体に気がつく。
赤いスカーフ。
パピルスのトレードマーク。ホントはただの赤いワンピースだった、でもその裾を切り取って、つくったスカーフ。
オレは認めなきゃならない。オレくらいは。
パピルスは死んだ。イヌじゃなく、ニンゲンに殺されたんだ。
赤いスカーフは舞い上がって、ここに落ちて、オレに縋ってきた。
オレが路頭に迷わないように?
ああ。ちょっと感情的すぎる気がする。でも止められなかった、どうすればいい?
オレはスカーフを目元に押し当て、その場に屈む。
助けられなかったし、最後の言葉も聞けなかったし、きっとパピルスは痛かった。
オレは、オレは吐きそうになる。どうすれば吐けるのかも知らないのに。
赤いスカーフに向かって首を折り込んで、膝を立てて体を小さく丸めてく。
泣いたりはしていない。泣けるわけがない。
空。空。アイツ車が欲しいって言っていた。
オレがアイツのパスタ食うのを見て、アイツはただ、シェフになれたと喜んでた。
地上で車を乗り回す夢を見る度に、オレへキラキラ話してきて、その地上の風景がどれだけ本物に似てるか聞いてきた。
ごみ捨て場に行って、悲惨な映画ディスクを探し当てたり、キラキラ光るカラフルなガラスの破片を集めたり、ゴミ水吸って真っ黒なぬいぐるみを綺麗にしようと奮闘したり。
アイツ、空に行けたのかな。あんなに厚い天井がオレたちの頭の上にある。でも、おまえは開放されたのかもしれない。
だったらいいかもしれない。でも、これも目を背けているだけなのかな。
オレはまだ、なんにもしたくなくて、パピルスの痛いくらい赤いスカーフに目を落としていた。
8/16/2025, 3:14:26 PM