月に願いを
太陽の下で生きる者は「昼の子供」である。彼らは地に満ちている。
「夜の子供」は彼らと似ているが、幾つかの点で明確に異なる。
彼らは昼の光を浴びられない。そして生物、特に昼の子供たちの血液を摂る必要がある。
長命だが繁殖力は低く、昼の文明の発展とともに食糧(昼の子供が想像するよりは少量である)は入手しづらくなりつつある。
彼らはごく小さな集団で地下に潜み、「自分だけのモノ」との出会いを夢みている。特別に相性のよい昼の子の血液は、彼らの慢性的に続く飢えと渇きを満たし、血を交わした昼の子は長命を得るという。
一人の夜の子が、満月の夜によくある願いごとをした。
「どうか僕だけの人が見つかりますように」
彼は昼の世界では大地主の身分であり、住む土地には野生動物が多く棲んでいる。食事にはさほど困っていなかった。ただ、とても寂しかった。
国立公園のすぐ近く、個人の所有地内に小さな廃坑がある。
時刻が夕暮れ時で運が良ければ、見学もできる。
小さな坑内には、あなたが先程国立公園で見て来たあの鉱石、世界中でもここでしか採れないという青い石がここかしこに煌めいており、夜空を嵌め込んで作ったモザイク画を思わせる。
だがかつて鉱山だった頃に落盤事故があったとかで、それほど奥へは行かれない。
管理人は真昼の空のように青い目をした青年で、穏やかで若々しい。
彼は夕暮れ時になると現れて、迷い込んで来た者にはお茶や軽食を振る舞い、足を捻った者には応急処置をしてやり、近くの町まで連れて行く。居心地のいい宿や美しい場所も教えてくれる。
廃坑の近くには小さな洞窟らしきものがある。入口からは屋根付きの通路が延びており、彼の住むこぢんまりした家の一部と繋がっている。よく見ると、「住居の一部につき見学不可」という、よく磨かれた立札が出ている。
家の側には、よく手入れされた墓がある。
すぐそばには、簡素だが上品な領主館が建っている。持ち主はこの一帯の地主らしいが、姿を見た者はいない。
管理人は、この館の持ち主に雇われているらしい。だが、自分が管理しているのはこの鉱山と農場だけだ、という。
この管理人は自分の遠縁にあたる人である。
ずっと昔、なぜあの洞窟のそばに住んでるの? と聞いたところ、こんな話をしてくれた。
十歳の時、まだ鉱山が動いてた頃だ。あの廃坑で落盤事故にあった。
親父はそこの監督みたいなものだった。ある日息子に職場を見せていたら、そこで事故が起きて死んでしまった。
俺はあらゆる意味で一人になった。つまり、社会的にも独りぼっちになり、無名の小さな鉱山に閉じ込められ、そのことを誰かに伝える術もない。
どれくらいの時間一人でいたのかはわからない。ただ親父の左手の指先だけが見えていて、そこを両手で掘り返そうとしたのは覚えてる。
指が痛くてたまらなくなったところで、一旦ライトを消した。とても疲れてた。
「残念」「残念」
「潰れてしまった。この子じゃ足りない」
何か罅割れた、気味の悪い声が聞こえて目が覚めた。
目の前に誰かがいた。でも真っ暗だからわからない。
「君、大丈夫?」
俺と同じ、子供の声だった。
「…誰?」
すると辺りの青い石が、星空みたいに光りだした。
自分と同じくらいの子が膝まずいていた。髪は黒くて、見たこともないほど綺麗な顔をしている。
「痛い?」
頷きながら、この子はどこから来たんだろうと思った。彼はそう、古い映画みたいに恭しく俺の両手をとると、いきなり指先を口に含んだ。
汚れてるよ、と言おうとしたが、痛みが消えたのに驚いて言葉が出てこなかった。
少し、間があった。
「その人は君の仲間?」
彼は俺の凭れている瓦礫を差した。
父だと伝えると、
「…ごめんね、今の僕には出してあげられない」
そりゃあ無理だろう。
「君一体どこから来たの?」
「すぐ隣から。僕ずっとここに住んでるんだよ」
それから数日、彼は俺の世話をしてくれた。食べ物は林檎、飲み物は何か薬草茶みたいなもの。用を足す場所もちゃんとあり、使うといつの間にかきれいになっていた。彼は身体中の傷に薬らしきものを塗ってくれ、清潔にしてくれた。
それで少なくとも、発狂せずに済んだ-突然父親という存在が消え失せて、しかもその亡骸がすぐ側にあるというのは、子供が経験しなくていいことのはずだ。彼が現実の存在かどうかはどうでもよかった。
彼は外の話を聞きたがった。特に昼の光について。確かに昼は太陽が出ていて、どこもかしこも明るい。でも、昼でも月は結構見えるよ、と伝えると、何故だかちょっと寂しそうな顔をした。
何日か経つと、何だかひどく眠くなってきた。するとまた、夢うつつにあの変な声が聞こえた。
「早く早く」
「死んでしまう、もったいない」
「貴方も死ぬ、我々のように」
「この子でいいから」
目が覚めると彼はやっぱり側にいて、外に出たいかと訊いてきた。
出たいけど無理だと思う、何だかとても眠くて身体が重い、と言った。
「僕のところに来てくれたら、君はずっとゆっくり眠っていられる。でもやっぱり帰りたいなら、君だけなら何とか出してあげられると思う」
帰れるなら帰りたい。父さんに何があったか知らせないといけないから。
そう言うと、彼は綺麗な顔をくしゃっと歪め、僕が連れて行ってあげる、と言った。
「大事な人なんだね」
父と一緒に埋もれてしまった鉱内の地図では、あそこは行き止まりのはずだった。だが彼は俺をおぶって地図にはなかった、細い通路に入ってゆく。青い石がきらきらしていた。
俺は眠くてたまらなかった。彼のところで「ずっとゆっくり眠って」いれば良かったと思った。全身が変に熱っぽくて、震えているのがわかった。ふいに、彼が立ち止まった。
「…昼の光」
そこは細い、本当に細い坑道の出口だった。あと十段ほど登れば、父と通った道へ出る。階段の先には柵があり、隙間から空が見えていた。
「登れそう?」
俺は首を振った。
「帰りたい?」
それには頷いた。
「あのね、僕あそこには行けないんだ。だから、だから、許して」
そう言うなり、彼は俺をそっとおろし、思い切り抱きしめた。思いのほか強い力だった。首筋にちくりと痛みが走り、疲れとだるさが吸い取られるように軽くなった。
また強い眠気-今度はとても快いものが襲ってきて、俺は目を閉じた。夢の中で、彼は何かを繰り返し言っていた。
翌朝、落盤跡(親父の死んだ場所よりずっと手前でも起きていた)の処理に来ていた仲間たちが、古びた「立ち入り禁止」の柵の中で倒れてる俺を見つけた。彼らは一週間近く、親父を探してくれていた。
俺は親父がもっと奥で事故に遭ったこと、亡くなったのは間違いないこと、自分は奇跡的に無傷だったこと、食糧と水を多めに持っていたこと、無我夢中で歩いていたらここにいたことなどを並べ立てた。本当なのは最初の二つだけだ。あの子のことは、誰も信じないと思って言わなかった。あの先は間違いなく行き止まりで、俺のいた坑道の先を知ってる者は誰もいない、そうみんなが言ったからね。みんな親父を悼んでくれて、俺に優しくしてくれた。
俺は独りになったけど、遠縁にあたる人が引き取ってくれた。きみのお祖父さんの従兄弟だよ。引き取られてすぐアメリカに移民して、十年くらい向こうにいた。
夜になると、よく埋もれたままの親父とあの子のことを思い出した。鉱山の中の夜の光も。
いつかあそこへ戻れますように、あの子が何であれ、もう一度会えますように。月の綺麗な夜には必ずそう願った。
願いごと? みんな叶ったよ。
ある満月の夜、俺はここに戻ってきて、幸せを見つけた。それはあの洞窟に詰まってる。ただ、幸せの中にはきちんと覆いをかけて守らないといけないものがある。この家はそのために作ったんだよ。
一人の夜の子が、満月の夜にいつもの願いごとをしていた。
「どうかあの子が戻って来てくれますように」
洞窟の入口に腰掛けて月を見上げる。彼は今でもずっと寂しかった。
旅姿の青年が目の前に立った。
ここらで見たことがないほど背が高くて、がっしりしている。だが目は真っ青で、あの時僅かに見えた昼の光と同じ色をしていた。
二人の住む奇妙な家は、決して日の差さない安全な屋根に覆われ、昼のようにあたたかく明るい灯りで溢れている。夜の子は少し天井が低いことを気にしているが、昼の子は気にならないらしい。
二人は満ち足りて、幸せに暮らしている。彼らが月を見上げるのは、ただ「綺麗だね」と言って微笑み合う時だけである。
5/27/2024, 8:13:46 AM