NoName

Open App

 有経らと別れた巴は、その足で昇降機に乗った。
 弐を押すと、扉が閉まる。
 昇降機に備え付けられた等身大の鏡に向き、特に崩れていない襟や前髪の向きを整えてみる。
 あれほど悩んでいたのが嘘みたいだ。巴は高揚していた。主である有経の紹介を断り、目星をつけている相手がいる旨を打ち明けたことで後に引けなくなった。こうなったら一刻も早く目当ての相手に交渉しなければならない。
 昇降機は珍しくどこの階にも寄り道しなかった。百名近くが生活する寮の昇降機で、八階から一度も止まらず進むのは珍しい。
 二階に来るのは久しぶりだった。先程までいた八階に比べると質素で雑然としている。花瓶に生けた花や絵画、洒落た調度品なんてものはない。広間に備え付けられた机や椅子も質素だ。今、上で寝泊まりしている人たちだって、皆嘗てはここで生活していたのだ。あの有経だって例外ではない。
 広間には三人いた。突然やって来た巴に、それまで楽しそうに談笑していた三人は、慌てて立ち上がり、挨拶する。
「静さんはどこの部屋にいますか」
 そのキビキビした動きにたじろぎそうになるのを抑え、巴は目的の人物の名前を告げてどこにいるのか尋ねる。三人は顔を見合わせ、そのうちの一人が代表して現在寝泊まりしている部屋の場所を伝える。
「こちらにお連れ致しましょうか?」
「いいえ、直接伺います。教えていただきありがとうございました」
「いえ……」
 丁寧に頭まで下げた巴に三人が戸惑っていることなどつゆ知らず、巴は件の部屋の前に行く。扉の前の名前札は、表向き、つまり外出していない。大抵は部屋の中にいるはずだ。万一、部屋にいなくとも、寮内のどこかにいる。巴は深呼吸し、扉を叩いた。

8/19/2023, 8:02:07 AM