冷瑞葵

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静かなる森へ

 おかしい。あまりにも前情報と違いすぎる。
 ここは都会から遠く離れた小さな村。近代的な建築や技術など一切見られない、世界から置き去りにされている辺鄙な土地である。
 私がここに来たのは、この村の先にある神秘の大木へと祈りを捧げるためだ。
 神秘の大木、またの名を奇跡の大木。人生に行き詰まった者がここに向かうと、みな笑顔で満足して帰ってくるという噂がある。かくいう私も未来に希望が見えなくなってここにやって来た次第だ。
 それで、何が前情報と違うかと言うと。
 神秘の大木があるこの森には異名がある。「静かなる森」。森に入った途端にあらゆる音が溶けるように消えて、まるで無音の世界に入ったような感覚になる。襲ってくる物寂しさを乗り越えて大木に辿り着いた者だけが救われる――というのは私からすれば大したハードルではないのだが、問題はこの村。なんなのだここは。
 五月蝿い。あまりにも五月蝿すぎる。
 静かという単語とは真反対に位置するような騒音が耳を刺す。これは、音楽なのだろうか。音楽とも声とも認識できない音の集合体が村中に充満している。頭が割れそうだ。
 そして、思いのほか人は多い。静かなる森というくらいだから人気のない場所を想像していた。何十何百という人々が笑顔で輪を作ったり酒を飲み交わしたりする様子を、どうして想像できようか。
 人混みの中の1人がこちらに気が付いた。彼に続いて何百もの目が一斉にこちらを向く。好奇心に満ちた目をしていて、心からの笑顔ばかりなのがかえって不気味だ。
 爆音は止みそうもない。相手が何を言っているかも分からないまま私は輪に加わり、促されるままに肉を食べ、相手の真似をして下手に笑った。あぁ、笑顔を作ったのなんていつぶりだろうか。
 肉を平らげて不器用に踊りをして、そうして非日常を過ごして空に橙色が差し始めた頃、最初に私に気付いた村人が私の腕をとって人混みから離れたところに案内してくれた。
 ――案内してくれた、という表現でいいのだろうか。知らぬ土地で変に興奮状態になっていて危機感が薄れている。
 離れても尚五月蝿いBGMで相手の声は十分には聞こえない。ジェスチャーでようやく、例の静かなる森への道を示しているのだと分かった。
 でも何というか……、なんだろうな。案内してもらった手前悪いんだけど、もういいやという気持ちになってしまった。この場所に来るとみな笑顔で満足して帰ってくるという噂の意味を理解してしまった。
 私は首を振り、元来た道を指し示した。今晩は夜が明けるまで踊り明かそう。そして明日故郷に帰ったら苦しみを抱えた人達に教えてやるのだ。静かなる森へ向かうと良い、と。

5/10/2025, 1:55:25 PM