理想郷
ここはどこだろう?
暗い中を私は一人で歩いていた。あたりは静かで何も見えなくて、ただ足元だけがぼんやり見えている。不安が胸に押し寄せてくる。誰かいないの? 早くどこかへ。
その時、先に小さく光が見えた。良かった! 私は救われた気分でその光を目指して進む。光が段々と近くなり、目の前に浮かび上がるように若い男が現れた。黒っぽいスーツを着て、すらりと背が高い。彼はにこやかに笑いかけてきた。
「こんばんは。この先へ進むには道を選んでください」
そう言って、彼は自分の後ろを手のひらで示した。
そこには二つに分かれた道が見える。彼は左側の道を指し示した。
「こちらはあなたが理想とする場所へ向かう道」
「理想?」
「そう理想郷、ユートピア、シャングリラなどとも言いますね。そこでは何の悩みも苦しみもなくあなたが理想とする人生を生きられる。誰もが幸せに生きている。素敵な所ですよ。
そしてこちらは、今まであなたが生きてきた場所へ続く道」
彼は右側の道を指差した。
「さあ、どうします?」
理想郷。何の悩みも苦しみもない? だったらこっちに決まっている。私は左側に一歩踏み出した。
その時、彼が言った。
「ああ、一つだけ。左側の道へ行けば、あなたが今大事にしているものや記憶が残っているとは限りません」
意味がわからなかったが、嫌な感じがして私は立ち止まる。
「それってどういうこと?」
「例えば家族とか、友達とか、楽しかった記憶とか、そういうものが消えている可能性があると言うことです」
「それは……」
「でも幸せですよ。そこでのあなたは。別に迷うことはないと思うんですがね」
彼はさらに笑みを深めながら先を促した。
「さあ、お進みください」
動けない。柔らかな彼の声が恐かった。
今までの人生が消えるかもしれない? それでも選ぶの? どっちを選べばいいの?
私は右側の道を見た。そして左側をまた見る。
どちらへ?
あなたならどうしますか?
#74
11/1/2023, 1:55:29 AM