ー 夏 ー
逃げ出そう と彼女は言った。
僕はそれに黙って頷き 走り出した。
それは蒸し暑い 夏の事だった。
この出来事は ぱっと思いついただけの子供の遊びだったけど 僕らにとっては 決心のひとつで 選択のひとつで 逃げ出せないことの証明だった。
事の始まりはこの日の前日からだったと思う。
僕らは いつも通りに学校に行き いつも通りに学び いつも通りに帰ってくる。
その日は 帰りに少し寄り道をすることにした。
もちろん そんなに長い時間じゃない。
きっと 数十分 くらい。
1時間はたっていなかった。
お互いに 離れるのがなんだか寂しくて もう少しだけ と欲張っただけだった。
次の日の彼女を見て 僕はそんな欲など捨ててしまえばよかったと思う。
彼女の親は 近所では少し有名だった。
噂では 虐待をしているとか。
僕は 元気でよく笑う彼女と 虐待 という言葉が上手く結びつかず そんなものはただの虚言だろうと思っていた。
だけど その日の彼女は 顔を腫らし 足は鮮やかな痣で彩られていた。
その日 学校で彼女に話しかけるものはいなかった。
それでも 僕らは一緒に帰った。
無言の中、彼女が口を開く。
「別に 君のせいじゃないよ。ただ 少し虫の居所が悪かっただけ。慣れてるの。こんなの。だって。子供は 親の 玩具で 操り人形で サンドバックで 所有物だから。こんなの 別に平気だよ。だから 気にしないで。」
僕は 震える手で彼女の手を握った。
彼女は少し驚いた顔をした後 少しだけ 力を込めてくれた。
僕らは そのままお互いの家へと帰っていった。
彼女から連絡があったのはその数時間後。
【昨日の公園へ来て欲しい】
とだけ表示されたメッセージを見て 僕は公園へと走り出した。
すぐ飛び出したのにも関わらず 彼女は 僕よりも先に公園にいた。
「こんな時間に呼び出してごめんね。用事はないの。なんでもないの。でも あの家にいたくなくて。でも 誰かのそばに居たくて。ただそれだけなの。少しだけ 少しだけでいいから。わたしの相手をしてくれない?。」
僕らは他愛もない話をした。
彼女の痣を見ないように。
彼女の涙に気づかないように。
僕は細心の注意を払って。
そろそろ帰ろうか と彼女は言った。
僕は そうだね。 と答えた。
公演を出る時 小さな声で 逃げ出そう と彼女は言った。
その言葉を聞いた瞬間 僕は彼女の手を掴み 走り出した。
2人きりで走る夜の街は 寂しくて 暖かくて 今でもずっと 覚えている。
走って 走って 。
疲れた頃には 2人で笑いながら また走った。
笑って 笑って 走って。
僕らは警察に補導された。
僕らは それぞれの家に帰らされた。
次の日 彼女は学校へ来なかった。
次の日も 次の日も ずっと。
僕は 彼女の家の前を通る度に悲鳴が聞こえる気がした。
彼女の 鮮やかな痣と 一緒に。
朝 父の読む新聞をチラッ見たとき 大きく 少女の死亡 と書かれていた。
僕はそっと新聞を捨て 彼女の家の前を通るのをやめた。
6/28/2023, 2:25:22 PM