"ありがとう、ごめんね"
「……ふぅ」
動物病院から帰宅して、居室に入った瞬間一息吐く。スマホの画面をつけて時計を見ると【PM5:49】を示す。
「良かった……。今回も何も無くて……」
安堵の声を漏らしながら、キャリーを持ち上げて中を覗く。
「んみぃん……」
子猫が身を丸くして、弱々しい声で鳴く。
今日は最後のワクチン接種の日でもあった。
ワクチンは計三回。前の二回でも今のように疲弊していた。その姿を見る度に俺の心も疲弊し、同時に申し訳なさが押し寄せてきた。
まだ免疫力が付いていない子猫には計三回のワクチン接種は必須で、仕方がない事だ。ワクチンを接種しなければ、外からの病原菌を簡単にもらって病気になり最悪の場合、合併症を引き起こしてしまう。
けれど、それでも、見ていて辛いものは辛い。
もうこいつにこんな姿をさせなくて済む。
床にキャリーを置き、扉を開く。
「……ほら、帰ってきたぞ」
うずくまる背中に声をかける。俺の言葉に呼応するように小さく身を捩り「……みゃあ」と鳴いてみせた。
「……っ」
そんな子猫の姿に、胸に鋭いナイフで刺されたようにずきりと痛み、息が詰まる。
「……お腹、空いてないか?ご飯……食べられるか?」
そう聞くと、子猫の耳がぴくりと動いた。
「ご飯、用意するから……だから……出てきてくれ……」
すると、丸くしていた体をゆっくりと動かし、四本の足でしっかりと立ち上がり、こちらを向いてキャリーから出てくる。
「……んみゃあ!」
こちらを見上げて、大きな一声をあげた。
そんな子猫の様子に、思わず両手で持ち上げて潰さないように優しく、胸に抱き寄せる。
「んみぃー」
少々苦しそうに手の中で身を捩る。が、次第にゴロゴロと喉を鳴らす音が大きくなる。
この音を聞くと、不思議と暖かい気持ちになる。
──ごめん。……ごめん。
子猫を顔の前に持ち上げる。
「みゃう」
そう鳴くと、俺の口元を小さな舌で舐め始める。
拾った時のように、俺の口元を執拗にぺろぺろと舐め上げる。
あの時のように舐めてくる舌がザラザラとくすぐったくて、少し痛い。
けれど、とても落ち着く。
自然と口角が上がっていく。
「ふふ……、くすぐってぇよ」
そう言った時、ずっとモヤモヤとわだかまっていた霧が晴れ渡っていった。
ずっと先延ばしにしていた、里親探し。
どうしようかと考えていた。何をすれば良いのか考えていた。
けれどそれは、自分自身への言い訳で本当は《何か》がブレーキとなって、里親探しをする事を躊躇わせていた。
その《何か》が何か、ようやく分かった。
大きく息を吸って、その答えとなる言葉を紡ぐ。
「……これからも……俺と、一緒にいてくれるか?」
最初は自分がこいつの面倒を見るのを嫌がっていた。『できない』『無理だ』って。
けれどそれは、ここが医院だからという理由で思っていた事だ。実際にそれを口に出した事だってある。
《俺自身》の理由は、ずっと考えてこなかった。いや、考えようとしてこなかった。これまでずっとそうだったように。
──俺は、こいつとずっと一緒にいたい。こいつを見つけたのは俺だ。俺を選んで擦り寄ってきたのはこいつだ。だから……。
「俺はお前と、この先もずっと。一緒に暮らしたい。……俺と一緒にいてくれるか?」
子猫の顔を改めて見据えながら聞く。
「みぃ……」
一瞬少し驚いた顔を浮かべる。
──やっぱ、嫌、だよな……。
「みゃあ!」
「うおっ」
急に大きな声をあげる。
その声は、あの時のように、力強い声だった。
「……っ」
子猫を再び胸に抱き寄せる。嬉しくて、心がふわふわと暖かい。
「みぃーいーっ」
「あ、悪い……」
急に抗議の声があがったかと思ったら、強く抱き寄せてしまったようだ。先程より苦しそうに顔を歪ませる子猫がいた。慌てて緩めて謝罪をする。
「みぃん」
再びゴロゴロと喉を鳴らす。
暖かくて、落ち着く音。
「……大好き」
12/8/2023, 2:21:38 PM