汀月透子

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〈安らかな瞳〉

 妻の表情が変わったのは、あの会社を辞めてから三ヶ月ほど経った頃だった。

 それまでの彼女の瞳は、どこか遠くを見ていた。同じ食卓についていても、同じ布団に入っていても、視線の先に私はいなかった。
 朝、カーテン越しの光が部屋に差し込んでも、彼女はすでにスマートフォンを握りしめ、見えない何かに追われるように画面を睨んでいた。
 夜は夜で、深夜に帰宅するなり浴槽の中で泣いていることがあった。水道の音で気づかぬふりをしながら、私はどうすることもできなかった。

 正確に言えば、何もできないことが怖くて、何もしなかった。
 妻が壊れていくのを、ただ見ていただけだった。
 
 そして、声が出なくなった。それでも職場に向かおうとする妻を無理やり心療内科に連れて行く。
 休むことを妻の職場に伝えたとき、「奥さん自分で電話かけられないくらいひどいんじゃ、仕方ないですねー」と電話口で笑ったあの上司の声は一生忘れない。

 退職を勧めたのは医者だった。
 心療内科の先生が「環境を変えることが最優先です」と告げたとき、妻は診察室で声もなく泣いた。私はその隣に座って、ようやく手を握ることができた。
 遅すぎた、と思った。それでも、遅すぎることなど何もないとも思いたかった。

 会社を辞めた最初の一ヶ月は、妻はほとんど眠っていた。昼も夜も関係なく、ただ眠った。
 私は仕事から帰ると、暗い部屋でその寝顔を確かめた。呼吸がある。それだけで、その日をやり過ごせた。

 二ヶ月目に、妻は台所に立つようになった。最初は味噌汁だけ。それから卵焼きが加わり、やがて小さな煮物が食卓に並んだ。私は毎回、大げさなくらい「美味しい」と言った。
 嘘ではなかった。何を食べても美味しかった。妻が作ったものだから。

 三ヶ月目のある土曜日、近所の川沿いを二人で歩いた。何年ぶりかの休日の散歩だった。
 桜にはまだ少し早く、木蓮の花が白く咲き残っていた。妻が立ち止まって、一本の木蓮を見上げた。

 そのとき初めて、私は気づいた。

 妻の瞳が、穏やかだった。

 ただそれだけのことなのに、胸の奥が痛くなるほど、その静けさが美しかった。
 追われていない目。恐れていない目。今この瞬間、ここにある目。
 私は思わず立ち止まって、妻の横顔を見た。妻が振り返って、「なに」と言った。

「何でもない」と私は答えた。

 嘘だった。でも、うまく言葉にできなかった。あなたの目に光が戻ってきた、などとどう口にすればいいのか。
 失っていたことを認めることが、彼女を傷つけるような気がした。だから黙って、ただ並んで歩いた。

 家に帰って、妻が茶を淹れてくれた。湯呑みを受け取るとき、指先が触れた。妻は何も言わなかったが、少しだけ微笑んだ。
 その微笑みにも、あの安らかさがあった。

 私たちはたくさんのものを失ったのかもしれない。時間、体力、かつて描いていた将来の形。 でも、私はそれらを数えることをやめた。

 妻の安らかな瞳が、ここにある。
 それで十分だと、今はそう思っている。

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ブラック、ダメ、絶対(´・ω・`)

3/15/2026, 5:47:25 AM