茎わかめ

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秘密の標本

2025/11/03/18:59
お題に惹かれる。時間取れたら書きたい気持ち。
2025/12/10/21:28
1ヶ月も経ってしまった……。時間の流れは早いですね……。


「標本を集めているのです」
 新しい職場の上司は、冷たく、艶やかに喉を震わせた。周りは変わらず、忙しなく足を動かしているのに、そこだけが切り取られたように真っ直ぐと声が届く。
 既視感が、名前のない映像から来ていた。雑踏の中、キャラクターたちの声だけがはっきりと聞こえるあの感覚。目の前の上司は、雑踏に塗れて消えそうな雰囲気を纏っていて、それなのに耳を震わすその音は、後付けで音量調整を忘れたような、そんなボリュームだった。
「標本、」
「えぇ、私が視察に出向くのは、標本を集めたいからです。あ、もちろん私欲ではありませんよ。あくまで仕事です」
 平然とそう告げているが、楽しみにしているのはよく知っている。今の上司と出会ったのは、その視察の真っ最中だった。もっとも自分は、視察とは露知らず、やけに美人な転校生だとばかり思っていたが。
 標本、と僕はもう一度繰り返した。音の乗らない、呼吸のような振動であったが、相手には聴こえていたようで。上司は地獄耳だった。
「えぇ。貴方もあの学舎であれば習ったでしょう? いや、あれは大学で習うものか……?」
「覚えがない、です。あぁでも、小学校の教科書にあったような気がします。蝶の標本の話が、」
 一瞬、ぴたりと立ち止まった、ような気がした。前の背を追うように教育されたためか、自分は反射で動いている節がある。歩調がずれ、少し遅れてから追いつく。
 斜め後ろから、前髪の隙間を縫って、僅かに上がる口角が見えた。あ、これは、
「あなた、ふ、それ、昆虫標本のことを指してます?」
 ツボにハマったぽい。
 息を吸って、吐いて、次には口角が僅かに下がる。
「標本。標本調査のことですよ。一部を調べて、全体の傾向を予測する……。その一部のことを"標本"と呼ぶのです」
 こうした視察はそれがメインですから。そう続ける口の動きを見ながら、美しい人だなぁという考えを片隅に追いやる。この人が紡ぐ言葉を聴くたびに行う癖だった。

 ただ、こうも端正な顔立ちと、冷めた表情と、淡々とした声をしているから。補佐についている僕ですら、耽美主義に傾きそうだから。
 こんな人だったら、ほんとうに人間を標本にしていたって、おかしくないなぁと思ってしまったのだった。

11/3/2025, 10:00:29 AM