桑名仁

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泣いていた。一切涙を見せたことのない彼が、ズビズビと鼻を鳴らしながら幼子のように泣いている。

元国語教師で、口がよく回る彼に何度も泣かされてきたのはこちらの方だった。だから、初めて見るそんな彼の姿に呆気に取られ、言葉に詰まっていると

「……たとえ歪んでいたとしても、おれは、おれの正義を全うしたい」

嗚咽を挟みながらもゆっくりと言葉を紡ぐ彼。

「誰かに理解してもらおうなんて思っていなかった。でも……なんでだろうな、お前に分かってもらえないのは、何故だかつらいんだ」

俯いていた顔がこちらを捉える。目と目が合い、重力に従った雫がぽたりと彼の頬から落ちていく。まるでスローモーションになったかのように、その雫の行方を追いかけた。

点と落ちて、小さな水たまりができた。しばらく手入れのされていないボロボロでくたくたな茶色のブーツ。それはまるで彼の心みたいだと思ったし、彼はずっと自分以外のために生きているんだと理解した。


私には言えない、言いたくない秘密を抱えて、葛藤しながら毎日を生きてきたんだ。私がなんにも考えずにケタケタ笑っている時も、彼の心の底では複雑に絡み合った感情がぐるぐる渦巻いて、今にも飲み込まれそうだったんだろうな。


「おれは、お前がいないと生きていけないんだって、気付いたよ」

情けない話だ、と鼻を赤らめながら滲ませた瞳でそう言った。


情けないのはこっちだ。愛おしい人のことをなんにも分かっていなかった私のほうだ。ぐっと唇を噛み締めて、勢いをつけて彼の胸元へ飛び込んだ。抱きつけば、自然と彼は受け止めてくれる。その"慣れ"には二人の過ごしてきた時間と経験と優しさと情が溢れていた。今更手放すことなんて、できない。


「幸せにはしてやんないけど、ずっと一緒には居てあげるから」

私はへらりと微笑んで、力いっぱい抱きしめた。

4/21/2024, 2:37:47 PM