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お題 涙
小さい頃、私の両親は離婚した。私は母に引き取られた。
私が中学に上がった頃、母に離婚の原因を聞いた。父の事業の失敗からの借金、そして父はそのストレスからかギャンブルや酒に依存していったことが原因だった。母は一生父を許すつもりがないと言っていた。
ああ、ひどい父親だと思う一方で、私には優しい頃の父の印象しか残っていなかった。
父に公園に連れて行ってもらって遊んでもらったり、『母さんには内緒だぞ?』とアイスを二人で食べたりした。
その記憶の全てが、父は優しく、慈愛に満ちた目をしていた。母にそう伝えると『それだけは認めてるわ。……父親として当たり前だけどね』となんとも言えない表情で答えた。
この時、父が私にとっては良い父親だったが、母にとっては最低な人だった、というのを改めて理解した。
そして私は朧げな記憶しかない父よりも女でひとつで育ててくれた母の方が大切だ。だから、私も父を許さないようにしようと思った。
それから一年経った中学2年生の頃、父の訃報が届いた。病死とのことだった。どうやら借金は全て返済できて、やっと再出発という時に癌が発覚した。そして発覚した時点で既に手遅れだったそうだ。
朧げな記憶の父親の死。悲しい気がするし、しかし母の心情を考えると悲しんではいけないと思った。なんだか不思議な感覚だった。
通夜は母と二人で参加した。私はてっきり母は参加しないと思っていたから内心驚いていた。通夜に向かう間の母の表情はまるで能面のようで恐かった。でもそれほどまでに母にとっては死してなお、父は許せないろくでなしだったのだろう。だとしたら、私も母の娘として父の死を悲しんでいけないと思った。
そう、決心をしていたのに。通夜での顔合わせの場で、棺の中の父の顔を見た時に、どうしてか、目の奥がじんと熱くなった。
父の顔は痩せこけていたが、どこか穏やかな表情だった。その表情が、朧げな記憶の中の父と被るのだ。
優しかった私のお父さん。私が公園で駆け回って転んで泣いたら必死な表情で手当てしてくれたお父さん。お母さんに頼まれてスーパーに寄った時、いつも内緒でお菓子を買ってくれたお父さん。歩くのが疲れたと私が駄々こねると困ったように笑って背負ってくれたお父さん。優しかったお父さん。そのお父さんが、死んじゃった。死んじゃったんだ。
そう認識したらもう止められなかった。ぼたぼたと目から溢れ出る涙としゃくり上げる声。
父の事で泣いたら、母を裏切るみたいで駄目だと思った。だって母は父を許してないのに。涙を止めようと手で拭っても拭っても止まらなかった。
私には、優しい父だったのだ。その記憶しかないのだ。温かで幸せな思い出しか。
私の横に立っていた母は無言のまま、私の背中を擦った。
…
…
…
通夜の帰り道。母の一歩後ろを歩きながら私は
「……ごめんなさい」
と一言だけ謝った。すると母は
「……あなたにとってはひとりだけの父親なんだから。悲しんで当然なのよ。謝ることなんか、ひとつもないわ」
そう返した。その言葉に少しだけ安堵する。
「……」
母は立ち止まる。
「……やっぱり、許せないわ」
「え?」
「……全部、全部ひとりで抱えて……。本当にひどい人……一生、一生許せない……許したくない」
そう零す母の言葉と肩は震えていて。
温かで幸せな思い出があるのは、私だけではなかったんだ。
私は母に掛ける言葉が見つからなくて、只々、先ほどの母の真似をして母の背中を擦るしかなかった。
3/29/2025, 5:07:53 PM