sairo

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「今日はここから先は駄目だからね」

地面に引いた線を指し彼女は言う。
彼女と一緒に遊ぶ時のルールのひとつ。線を見ながら小さく頷いた。

「じゃあ、今日は何して遊ぶ?」

問われて周りを見回した。
今日遊ぶ場所は中心に大きな木が一本立っているだけで、周りには何もない。隠れ鬼が候補から消え、それならばと木を見上げた。
手を伸ばせば届く位置に太い枝が伸びている。今まで木登りはしたことがなかったが、これなら自分でも登れそうだ。

「じゃあ、今日は木登りにしよっか……おいで。登り方を教えてあげる」

何も言わずとも考えていることが分かったのだろう。小さく笑った彼女が木へと近寄り、手招いた。
彼女の元へ近づけば、するすると器用に枝に登っていく。彼女を真似して木に足をかけ、指示された通りに登っていけば、すぐに彼女の隣の枝まで辿り着いた。

「上手。どう?初めての木登りは」
「思ったより簡単だった」

きっとそう感じたのは、彼女の指示があったからだ。自分一人では最初の部分で躓いていたと思いながらも口には出さず、枝に座って遠くを見る。
どこまでも続く草原が、風に吹かれて波のように揺れている。温かな日差しと穏やかな風に、無意識に笑みが浮かんだ。

「寝ないでよ」
「寝ないよ」

そう言いながらも、心地よい温もりに少しだけ意識が揺らぐ。
隣から呆れたような溜息が聞こえた。それと同時に風が吹き抜け、ふわりとした浮遊感と共に、地面に足がつく感覚がした。

「寝て落ちてしまったら大変だからね」

笑われて顔が熱くなる。けれど何も言い返せずに、彼女から顔を逸らして木の根元に座り込んだ。
木漏れ日が心地良い。意識が微睡み始め、恥ずかしさなどどこかに消えていく。

「次はお昼寝になりそうだね」

顔を覗き込んで、彼女が言う。もう顔を逸らすことはせず、ただぼんやりと彼女の目を見返した。
こうして顔を覗き込んでくる時の彼女の瞳は、満たされているような安らいだ色をしている。まるで自分がここにいることに安堵しているようだ。
何故そんな目をするのか。疑問に思ったことは何度もある。けれど聞いてはいけないような気がして、今日も知らない振りをして目を閉じた。



烏の鳴き声が聞こえて、目を開ける。
気づけば辺りは夕暮れの朱に染まり、沈みかけた夕陽に向かい烏が一羽飛んでいくのが見えた。

「そろそろ帰る時間だよ。ほら入口まで送ってあげるから、早く行こう」

彼女に手を引かれて立ち上がる。そのまま手を繋いで、彼女の言う入口まで歩き出す。
入口というのは、彼女が地面に書いた線の一つだ。引き戸のようにそこだけが二重になっている。
それもルールの一つだ。必ず入口から出入りしなければならない。
入口から入り、線の内側だけで遊び、烏が鳴けばまた入口から出て帰る。
前にルールについて彼女に聞いたことはあるが、必要だからとしか答えてくれなかった。

「じゃあね。気を付けて」
「うん……」

送り出されて、彼女の目を見ないようにしながら頷き、歩き出す。
この時の彼女の目は見れない。表情の抜け落ちた、けれども鋭い目が逸らされることなく向けられている。今も感じる強い視線が恐ろしくて、彼女に気づかれぬよう少しだけ足を速めた。
どうして。口に出せない疑問が、頭の中で渦を巻く。
どうしてそんな目をするのか。いくつもあるルールは何のためにあるのか。
今振り返り、引き返したとしたら、何かが変わってしまうのか。次に遊ぶ時に線の外側へと出たら、築き上げてきたものすべてが崩れてしまうのか。
いくら考えても答えは分からず、行動を起こすこともできない。
俯き歩きながら、見て見ぬ振りを続ける臆病さに自嘲した。





ひた、と、額に感じる冷たさに意識が浮上する。
体が重い。汗の不快感にシャワーを浴びたいのに、起き上がることができない。
息苦しさに、自分が発熱していることを知る。ならば先程感じた額の冷たさは、誰かが額に乗せたタオルなのだろうか。
母だろうか。重い瞼に力を入れて開けながら考える。
しかしそれは、目を開けて視界に映る室内を見て違うと気づく。
一人暮らしで借りているアパートの一室だ。自分の他に誰かがいるはずがない。
夢だったのだろう。額にタオルはなく、熱に浮かされて昔の夢を見ていたのだ。
そう思いながら、室内を見回していた視線がキッチンへと続く扉を見て止まる。
ただの引き戸。だというのに、彼女と遊ぶ時に通る入口が思い浮かんだ。
入口を通り、区切られた室内で遊ぶ。けれど外の音は壁に阻まれて、烏の声は聞こえない。
発熱とは違う恐怖で体が震え出す。今まで何も疑問に思わなかったことが、次々と浮かぶ。
自分はいつから彼女と遊んでいたのか。遊んでいた場所はどこなのか。
そもそも、彼女とは一体誰なのか。

不意に、扉の向こうで影が揺らいだ。
人の影。視線を逸らすこともできずに見つめていれば、扉がゆっくりと開いていく。
音はない。ただ微かに、土と草の香りが鼻を掠めた。

「あぁ、起きたんだ」

いつもと変わらない様子で、彼女が桶を手に部屋に入ってくる。
どうして、と口にしたつもりだった。けれど震える唇から溢れるのは意味の伴わない、掠れた吐息だけ。
それでも言いたいことが伝わったのだろう。彼女は枕元まで来ると、薄く笑いながらサイドテーブルに桶を置いた。

「入口は、出入りするためのもの。遊ぶ時に決めたでしょう?」

だから入って来れたのだと、彼女は笑いながら桶から取り出したタオルを絞る。額に乗せられて、その冷たさに目を閉じた。

「それに、またねって手を振ったのは貴女でしょう?それなのに、こんな遠くまで逃げ出して、しかも獣除けの札まで貼るんだから……私、扉問答は苦手なのに」

彼女は何を言っているのだろうか。思い当たる記憶はない。
あぁ、でも。ぼんやりとする意識の中、うっすらと思い出す。
引っ越しの時、母が部屋の壁に何かを貼っていた。本棚や箪笥で塞がれ、今まで思い出すこともなかった。
それに、実家の近くの神社では、人を攫う狐の怪談話があったはずだ。はっきりと覚えてはいないが、攫われた人は狐に食べられてしまうのではなかっただろうか。

「失礼ね。ちょっと迷わせて遊んでいただけで、一人も食べてなんかいないよ。飽きたら皆返してたし」

口には出していないというのに、彼女は言い訳のような答えを返す。けれどやはり、彼女の言葉の意味はほとんど分からなかった。
熱が出ているせいなのか、思考がまとまらない。何が起きているのか、これからどうなるのかを考えることができない。
あの日と同じ。幼い頃、怪我をしていた狐を見つけ、気まぐれにハンカチを巻いたことを思い出した。

「言っておくけど、本当に食べたりしないからね。食べるくらいなら、ずっと一緒に遊んでいた方が楽しいし」

優しく頭を撫でられる。固く絞ったタオルで汗を拭いていく感覚がする。
沈んでいく意識を手繰り寄せ、必死に瞼をこじ開けた。

「夢を通して、ようやく捕まえたんだから。元気になったら、たくさん楽しいことをしよう」

だから、早く元気になってと。
あの安らかな、それでいて怪しい光を湛えた獣の瞳が、自分を見下ろし笑っていた。



20260314 『安らかな瞳』

3/15/2026, 2:12:45 PM