"遠く…"
遠く、遠くへ行きたい。
此処じゃない何処かへ。
わたし自身がいない場所へ。
帰りたいなぁ。
ずっと昔、頬を腫らした貴女はそう言って膝を抱えていた。すぐ後ろにある玄関扉にもたれて、困ったように微笑む。
貴女の家はそこにあるのに。
帰るべき場所に帰りたくないのに、どこに帰りたいと言うんだろう。
手招きされて、隣に座り込む。
ただぼんやり夕陽が沈む様子を二人で眺めていた。
やがて薄暗い空に星が瞬き出す頃。
貴女は空を見上げて静かに囁いた。
"カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなのさいわいのためならば僕のからだなんか百ペん灼いてもかまわない。"
"けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。"
僕が首を傾げると、貴女は鞄から本を一冊取り出す。その本は、何度も読み返したのかボロボロになっていた。
宮沢賢治、銀河鉄道の夜。名作だよ。
読みなよ、貸してあげる。
いらない、と断ると、可愛くないガキだと髪をクシャクシャにされた。口を尖らせて見上げると、貴女はもう涙を浮かべておらず、悪戯っぽくにんまりと笑っていた。
作中で、どこまでも一緒に行こうとカムパネルラに言ったのはジョバンニだった。
それなのに、かつて同じ台詞を口遊んだ貴女は今ここにいない。先に銀河鉄道に乗って遠くへ行ってしまったのは貴女の方だった。
2/8/2025, 3:19:50 PM