味噌汁が五臓六腑に染み入る季節になってきた。
キッチンにアサリと味噌の香りが立ち込めていたときである。
「あ。お味噌なくなっちゃった」
そんな彼女の言葉から、俺たちはスーパーで買い物をするために身支度を整え始めた。
リビングで軽くメイクを施していく彼女は、最後の仕上げといわんばかりにリップブラシを唇に乗せる。
薄い唇が鮮やかな桃色に彩られた。
上唇と下唇を合わせながら口紅を馴染ませる動作は、何度見ても魅入ってしまう。
「モモみたいですね」
「え?」
余程唐突に感じたのか、彼女はポカンとしながら小さな鏡を通して俺を見つめた。
「食べたくなってきました」
「モモかー。でもさすがにもう売ってないんじゃない」
鏡に映る自身の唇を見つめながら、楽しげに声を弾ませる。
その視線が欲しくて細い顎をさらった。
「かな……?」
視線を手に入れたら、今度は瑞々しい唇も欲しくなる。
ちゅむ。
彼女の言葉を唇で遮った。
化粧品特有の甘やかな香りと、艶を唇から奪う。
彼女の下唇に濃く乗った鮮やかに潤っていた桃色を執拗に食んだ。
「……もー」
「リップ、取れちゃいましたね」
口紅に代わって俺の唾液で濡れた唇を親指で撫でる。
身を捩って恥ずかしさをごまかそうと、彼女はツンケンと顔を逸らして俺の指を払いのけた。
「れーじくんの唇がぷるぷるになっちゃったじゃん」
「コレで、拭ってくださいよ」
照れを隠すために無法地帯となりかけるお口にかまうことなく、舌先でノックをする。
「ダメ」
鼻の抜けた息をこぼしながら、彼女は蠱惑的に瞳を揺らした。
「まずは買い物から、ね?」
買い物デートは譲れない。
俺が絆されることをわかっていて、余裕たっぷりに煽る彼女を簡単には手放したくもなかった。
「……『から』ですか?」
眼鏡というレンズ1枚。
この板を挟まないと彼女の輝きをきちんと捉えることはできないのに、隔たりとなる眼鏡が煩わしかった。
だが、さすがに彼女の反応が速い。
フレームにかけた指は、彼女の細い指に絡め取られてしまった。
「買い物してー、手を洗ってー、部屋の片づけしてー、ちょっと休憩してー」
捕らわれた俺の手先は彼女に操られたまま、きれいにメイクされた顔の輪郭をなぞる。
「キスはそれから、でしょ?」
爪の先に薄い桜色の唇が乗った。
ちろ、と彼女の舌先が爪に触れる。
「それ」
誰に覚えさせられたんだよ。
油断すると迫り上がってくる嫉妬と独占欲を、無理やり押さえ込んで平静を装った。
「……焦ったくてチュウだけじゃすみそうにありませんけど?」
「キャアッ。えっちー」
パッと手を離して、彼女は楽しそうに表情を綻ばせる。
無邪気でかわいいが、それで絆されるほどチョロくはなかった。
自由になった両腕で彼女の腰を抱き寄せる。
「俺、まだなにも言ってませんよ?」
夏の頃に比べて厚手になったシャツの下から、骨盤の薄い皮膚の上を撫で回した。
「そっちこそ、なにを期待したんです?」
「私がしてあげるのは、キスだけだよ?」
妖艶に揺れる瑠璃色の瞳に目を奪われていると、ひんやりとしたコットンが唇に押し当てられた。
「なにか、してほしいことでもあるの?」
いくらなんでも、それは思わせぶりがすぎるだろう。
反撃されることを全く考慮していないあたり、脇が甘すぎて心配になるくらいだ。
「俺のしてほしいこと、してくれるんです?」
「買い物が先」
挑発的な微笑みに、俺はあっさりと白旗を上げた。
「……さすがに絆されました」
「ふふんっ」
得意げにふんぞり返っているが、本当に……。
本っっっ当に、負けず嫌いの彼女は目先の勝負しか見えていなかった。
そして、買い物のあと。
俺は彼女をグズグズになるまで蕩かしていく。
据え膳としてぶら下げてくれたご褒美を、心ゆくまで堪能した。
『そして、』
10/31/2025, 9:12:07 AM