香織には、子供の頃の記憶がない。
それは、記憶喪失とかそういった類いではなくて、本当にない、いわば無なのだ。
生まれ落ちてから今、大人になるまでどのように生きてきたのか誰も知らない。
ある日突然香織という大人が生まれ、知らぬ間に人々の意識に根付いていたのだ。
例えば、誰かに香織が小学生の頃の話を聞く。
すると、決まって皆こういうのだ。
「覚えてない」
だが、誰もそのことを疑問に思うことはない。ただ一人、香織を除いては。
当の本人だけが、誰も覚えていない過去を訝しんでいるとは不思議な話だ。
けれども、自分すらも覚えていないのならそれは当然のことだったのかもしれない。
頭の隅に霧がかったようにぼんやりとした記憶。
自分も他人も、過去の自分という存在を証明出来ないことに一種の恐怖もあったのかもしれない。
香織の両親でさえも、香織のことを覚えていない。
いや、そもそも香織という存在ごと知らないのだ。
香織が大人の頃には、彼らは他界してしまっていたのだから。
香織自身は辛うじて両親の姿を思い浮かべることはできるが、それでも顔はぼかしがかったかのように見えない。
本当に香織という人は昔から存在していたのか。
何故、大人からの記憶がないのか。
答えは出ないけれど、ただ1つ確かなことは、香織という存在はまるでエラーを無理やり修正したようだった。ということだけである。
3/26/2025, 6:02:52 AM