初音くろ

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《大地に寝転び雲が流れる……目を閉じると浮かんできたのはどんなお話?》





丘の上、外套を敷物代わりにしてごろりと仰向けに寝転んだ。
草原を渡る風が葉を揺らす音が潮騒を思い起こさせる。
不意に訪れた郷愁にも似た感傷を振り払うかのように、ぼくは大きく伸びをした。

故郷を離れて、もうずいぶん経つ。
夢を叶えるまで帰らないと、啖呵を切って飛び出したのは成人してまもない頃だった。
好きだった彼女は、きっともう誰かと結婚してしまったことだろう。
待っていてほしいなんて、あの時のぼくは、とても言えやしなかった。

視界いっぱいに広がる青空には白い雲が悠々と流れていく。
いつか彼女と見た空と雲を思い出し、何となく似た形の雲を探す。

未だ夢半ばではあるけれど。
帰りたい。そして、会いたい。
もしも彼女がまだ独り身だったなら、そしてぼくのことをまだ好きでいてくれたなら。

「一緒に来てくれって言ったら、頷いてくれるかな」

そんなことを夢想するけれど、それが決して現実にはならないことを、ぼくは誰よりもよく知っている。
きっと彼女にそんなことを告げようものなら、ふざけるなと怒鳴られることだろう。
そして、置いていったくせに今更調子のいいことを言うなと蹴飛ばされるに違いない。
いや、そもそも待っていてくれるなんてことあるわけがない。
もしもまだ想っていてくれるとしたら――

「やっと見つけた!」
「え?」

白昼夢でも見ているのだろうか。
ざかざか草を踏みしめる音が近づいてきたと思ったら、不意に頭上に影が差し、今まさに思い描いていた声が降ってきた。
声の主の顔は、影になってよく見えない。
けれど、これが都合のいい夢でないのなら――ぼくが彼女の声を聞き間違えるはずはない。

「待っても待っても帰って来ないんだもの。待ちくたびれて追いかけてきちゃったわよ」
「夢じゃない、のか」
「夢なんかであるものですか。お嫁さんにしてくれるって約束、まだ有効でしょうね? それとも私のことなんかとっくに忘れて、もう他の人のものになってたりしないわよね?」

強い口調とは裏腹に、その声は微かに震えていて。

ああ、彼女だ。
会いたくて会いたくて堪らなかった、いつだってぼくの胸を焦がし続けていた彼女だ。
忘れるなんてできっこない。
だって、ぼくは。

「君に相応しい男になるためにって村を出たのに、忘れるなんてことあるはずないよ」
「それなら良かった」

そう、もしも彼女がまだぼくのことを想っていてくれるとしたら、大人しく待ち続けるより、きっと追いかけてくれることを選ぶだろうと思ってた。
まさか本当に追いかけてきてくれるとは思わなかったけど。

「さっきの」
「うん?」
「一緒に来てくれって言ったらってやつ。あれが私のことなら、答えはもちろん『連れてって』だよ」
「……!」
「だから、もう二度と置いてかないで」

涙の気配を感じさせる声に、ぼくは一も二もなく飛び起きると、力いっぱい彼女の身体を抱きしめた。
久しぶりの抱き心地は以前とは違っていたけれど、布越しに伝わる体温は覚えているままで、胸に甘い幸福感が広がっていく。
大事な人を再びこの腕に抱けたことを神に感謝しながら、ぼくはもう一度空に目を向ける。
流れる雲は、いつか見た雲の形ととてもよく似ていた。





5/4/2023, 12:59:37 PM