そこは片田舎にある町外れの森の中。昼でも光を通さない程深い森の舗装されていない獣道を、ただひたすらに進んでいくと開けた場所に出る。
そこには湖と立派な洋館があり、俺がその洋館のノッカーを軽く叩くと扉が開かれ、館の中へと入って行った。
『ようこそおいで下さいました。さぁ、こちらにお座り下さい。あなたのお話をお聞かせ下さい。』
広いロビーに入ると、まるで待っていたかのようにその人は出迎えた。勧められた席に座ると、直ぐに暖かい紅茶とお菓子が出され、話すように促される。
俺は今日ここに来た経緯を少しずつ話し始めた。
十数年連れ添った最愛の人がいた事。
その人が病に倒れ、共に闘病を続けたが最近息を引き取った事。
そして、彼女の遺言書を見つけ中に書かれていた最後の願いを叶える為にここを訪れたのだ。
『彼女の遺書には、私を忘れて幸せになって下さいと書かれていて⋯⋯このサナトリウムの住所も記載されていました。』
俺は一呼吸置いてから言葉を続ける。
『俺には彼女の記憶を持ったまま幸せになる事は出来ません。それを分かった上で彼女は遺書にここの住所を記載したのだと思います。もし、可能であるなら彼女の記憶を消した状態でも⋯⋯毎年共に見た花畑の記憶だけでも残しておくことは出来ないでしょうか。』
俺はダメ元でそう伝える。記憶を消すのに、それだけなんて出来るわけがないと分かっていても⋯⋯諦めることが出来なかったからだ。
一番印象に残っている幸せな記憶。病気になっても先生と相談して訪れていた場所だから、そこだけは失いたく無かった。
『それはお辛い出来事でしたね。ご安心下さい。あなたのお悩みはその願いも含めて、私共が解決してみせます。
さぁ、今回の担当医達の所までご案内いたします。こちらへどうぞ。』
そういうと俺の手を取り、吹き抜けの階段を上がって目の前の部屋へと案内される。
コンコンコン、と。控えめなノックの後にどうぞと声がかかり、案内してくれた彼女が扉を開けてくれた。
手の仕草だけで中へと促され俺は彼女に会釈してその部屋へと入る。そこには前髪で片目を隠した少女とふんわりとした雰囲気の少女がおり、椅子に座るよう言われる。
俺はが指示通りに座るとふんわりとした雰囲気の少女が早速話を切り出した。
『特定の人物との思い出摘出と一部の記憶を保持したいとの事ですが、摘出した空白分の記憶はどうなさいますか?
何かリクエストがあればその通りに繋げられますよ。』
そう微笑みながら言う彼女に、あの花畑の記憶さえあればどんな記憶を繋げられても良いと、俺は答えた。
『摘出した記憶は特殊な事例でもない限り戻る事はないです。
また、新しい記憶で空白期間を埋めると、他の人達との記憶に差異が生じてしまうのでその点注意が必要になります。
その事を踏まえた上で、この同意書にサインして下さい。』
そう言い終わると1枚の紙を、俺の目の前の机に差し出す。
それは彼女の説明通りの内容が書かれた同意書であり、最後に摘出したモノは手術代としてもらうため、返せないとも書かれていた。
俺はその事に同意しサインすると彼女に差し出す。彼女はそれを確認すると、引き出しの中からファイルを取り出して中にしまい俺に向き直る。
『それでは早速施術をはじめます。壁際のベッドで横になって下さい。』
そう言った彼女の指示通り、指定されたベッドに横たわる。
すると彼女は不思議な音色の鈴をゆっくりと鳴らし始めた。その音はとても心地が良く、聞いている内に少しずつ眠くなってきて―――俺はそのまま眠気に抗うことなく⋯⋯ゆっくりと意識を手放した。
目が覚めると知らない天井が視界に広がっている。
辺りを確認しようと上体を起こすと、それに気付いた少女が話しかけてきた。
『おはようございます。お加減は如何ですか?』
ふんわりとした雰囲気の少女に俺は大丈夫ですと答えた。そういえば、森で迷って休ませてもらっていたなと思い出す。
『休ませて頂いた上に居眠りしてしまうとは⋯⋯本当に申し訳ない事をしました。だいぶ気分も疲れも取れたので、そろそろお暇します。大変ご迷惑をお掛けしました。休ませてくれてありがとうございます。』
そうお礼と謝罪を述べてから俺はその少女の案内で部屋を出てロビーへと行き、今度は深々と頭を下げてからその場を後にする。
出る前に大通りへの道筋を教えてもらっていたから、深い森の中⋯⋯しかも舗装されていない獣道でも迷わず進むことが出来、日が暮れる前に帰宅する事が出来た。
◇ ◇ ◇
そんな気まぐれで訪れた森で、年甲斐もなく迷子になってから数カ月が経った。
肌を刺すような寒さは少しずつ身を潜め、暖かな春の木漏れ日の中で花々が咲き誇る季節が訪れようとしている。
俺はもう十数年も前に見つけたお気に入りの花畑へと、今年も訪れていた。
たまたま趣味の散歩を楽しんでいる時に見つけた、それは見事な花畑で一目で気に入り、春になるとその場所へ一人で出掛けてピクニック―――と言ってもただ出来合いの弁当を買って食べるだけ―――を楽しんでいる。
今年も花が美しく咲く季節になったから、最近見つけた美味しい弁当屋の幕の内を持って花見を楽しんでいた。
暖かな風がザァーっと吹いて、花の香りが鼻腔をくすぐる。何処か懐かしくも切ない気持ちになって、何か大切なモノが欠けている気がして⋯⋯我慢出来ずに涙した。
それは酷く大きな失くし物の様な気がして⋯⋯でももう、決して取り戻せないモノだと直感的に理解する。
そんな郷愁にも似た感情に振り回されながら、今年もこの花畑で⋯⋯俺は春を謳歌するのだった。
3/27/2025, 12:27:41 PM