同情
高校生の時、今でも覚えている小論文の問題文がある。
爆撃を逃れようと、子供を抱えながら家族で川を渡る写真。ベトナム戦争時に撮られた『安全への逃避』。沢田教一のピュリッツァー賞受賞作が載っていた。問題文はこうだ。
このカメラマンはカメラを置いて手を差し伸べるべきか、それともシャッターを切り続けるべきか。
今でもたまに考えることがある。難しい問だ。小論文は何が正しいかを追求するのではなく、論理的な文章を書ければそれでいいのだが。写真の引力に惹かれて、正解を求めてしまう。
当時は、すぐに助けるべき、という方向性で書いたように記憶している。若かったな。
いまは逆。究極のジャーナリズムは、ただ出来事を伝えること。極端に言えば、カメラにまかせて終わり。今なら、動画のライブ配信といったところか。
そこには誰の思惑も同情もない。事実のみ。それをどう受け止めるかは、見る者の自由、または責任。
こんなふうに考えるようになったのは、メディアの人間の醜悪さを学んだからだろうか。人の死や名誉を、自分達の良いように利用しようとする人間のなんと多いことか。
情報は刃物だ。扱う者は知性と覚悟がいる。情のみで振り回す幼児、あるいは幼児の如きメディアには任せるわけにはいかない。
しかしながら改めて、この小論文、本当に難しい。このカメラマンは、という問題文なら、前述の通りだ。だが、あなたなら、と問われたらどうだろうか。自分の名前を公表し作品の側で、人命よりもシャッターを優先したのかと問われた時、僕はどんな顔で答えるのだろう。
まだまだ正解は遠いな。これじゃメディアの人間に偉そうに言う資格もない。
2/20/2024, 10:31:14 PM