13歳の春休み、僕はおばあさんの家に帰った。
おじいさんが運転する白い軽トラックには、田んぼからの泥っぽく青臭い匂い風が絶えず流れていた。
「それにしても、えっらいおおきくなったじ」
「そうかな」
風は強いけれど、のどかな田舎道でおじいさんの声は快活だ。おじいさんは、僕の知る中で、一番元気でやんちゃな人だ。僕はなんだか、久しぶりに僕に
なった気がして、自然と大きな声になった。
今日は暖かな明るい春休み。おばあさんの家の庭は以前にもまして、のびのびと草花が茂っていて、ぽやぽやと輝いている。僕はモネの風景画を思い浮か
べた。
おばあさんは、ずいぶん小さくなっていた。僕が軽トラから降りると、縁側の奥の薄暗い部屋から庭に降りてきて、僕の荷物を受け取ると二階にいってしまった。僕は明るい庭に立ち尽くした。おじいさんの声と知らないおじいさんの声が遠くの方で聞こえる。蝶が目の前を横切った。
転校したのは小学校3年生の夏だった。僕は半袖で黒いランドセルを背負って軽トラックの前にいる。
その時、青いワンピースの少女が現れる。少女は僕を不思議そうな目でみつめながら、坂道を下ってゆく。駆け足で、颯爽と。
「松苗さんは本当に…わっはっははは」
おじいさんの声が一段と大きくなった。振り返ると、おじいさんは坂道を少し下ったところにいて、塀の近くのサザンカの木の合間にちょうど顔が覗いてみえた。おじいさんは松苗さん(?)と話している。
おばあさんが夕飯に呼んだから、僕は玄関にいった。玄関で僕はまた、たち止まった。ここでバーベキューをしたこともある。あの夏の匂い。焼肉のタレの甘辛い、けむ臭い匂い。蝉の声。
目を閉じて夏のあの日を思い出す。さようならバーベキュー、僕は転校してしまった。青いワンピースの女の子は茣蓙に座らずに、ボールで遊んでいた。
ぺんてんぺんてん 白いうさぎは野山の隅で 今日の晩飯つくってる 赤いうさぎは野山の陰で …
ぺんてんぺんてんと、ボールの音が聞こえてきて、目をあけると、家の向かいの道にあの子がいた。あの日の少女だ。
「松苗さん…」
僕の声は発せられただろうか? 彼女はまだ、ぺんてんと、ボールを叩く。
「松苗さん、あのね…」
ボールが彼女のサンダルにあたって、跳ねた。僕の方にトントンと転げてきたので、屈んでボールを拾いあげた。
ゴム製の少し重たいボール。僕の手は震えている。西日が強くて何も見えない。これは、幼い頃の僕のボールだ。これでよく遊んだ。毎日遊んだ。煤けているところは、もしかしてバーベキューの煙?
少し笑いながら、立ち上がると、彼女はいなかった。いなかった。
庭から溢れて、覆うようにゆれる青い花が、僕を西日から守る。彼女らは、もうじき枯れてしまう。
僕は日陰に逃げ込んで、夏まで生きよう。青いワンピースの夏まで…
【勿忘草】
2/2/2024, 1:30:16 PM