小さい頃、海は桜を知らないのだと思っていた。
あの、青く澄んで、雄大で、どこまでも広く見えた海に、淡いピンク色をしたちっぽけな花弁が浮かんでいる様が、どうしても想像できなかった。
海はあまりに雄大で、桜があまりに儚くて、大きすぎる海は、小さなあの花を知らないと、そう思った。
勿論、大人になってからは海沿いの桜並木だって、多くはなくとも存在していることは知っている。
それでもやっぱり、桜は海には似合わなくて、もっと地味な、川か、池が、湖のあの静けさがよく似合う。
そよそよと枝を揺らす潮風なんて、到底桜には似つかわしくないだろう。
子供の頃の誤解が解けても、イメージまでは解けなかった。
桜は海に似合わない。海は、桜を知らない。
腕のあるミロのヴィーナスのように、思想のない哲学書のように、それが異質で、私にとっては受け入れ難い違和感を生んでいる。
だが、生涯でたった一度だけ、友人に連れ出されて海に程近い桜を見に行った事がある。
青い空と、澄んだ海。一面の青を背景にした桜は、確かに美しかった。
並木ではなかったけれど、一本だけ強かに生えた巨木は、何より高い空へ枝を茂らせている。
桜は潮風に弱いと思っていたが、案外強かったのかもしれない。
桜の似合うような手弱女も、ひょっとすれば、潮風にだって耐えられるような強さを孕んでいたのかもしれない。
そんな、どうだっていい考え事をするくらいには、私は集中できていなかった。
目が覚めるほどの青に、白い花弁が僅かに照れたような色の桜は、確かによく映えて美しい。
けれど、私の偏見を払拭するには至らない。
興醒め、とまではいかないが、内心落胆したのは事実だ。
ぼんやりと、桜も海も見ずに空を見つめていた私の視界に、ふと、散った桜の花びらが映った。
潮風に流されるその1枚は、吸い寄せられるように海へ辿り着き、赤みの白をしたその身体を青に浸していく。
気が付けば、私の足は砂浜を踏んでいた。
靴の中に細かく煌めく砂が入るのも厭わず、海面へ散っていく花を見つめる。
舞って、落ちて、浮いて、沈む。
その一幕を見て、ようやく私は理解した。
海は桜を知っている。
その美しさを知った海が、花弁の色を呑み込んでしまうほど、愛している。
潮風に散らされる花を見上げながら、波の音に掻き消される花の散る音を、微かにでも聞こうと耳を澄ませていた。
テーマ:風に乗って
4/30/2026, 8:50:42 AM